闇桜

Slick

闇桜

 闇桜


 その村には『闇桜』という言い伝えがありました。

 集落を見下ろす山々の斜面。杉林に覆われたお社(やしろ)の裏手には、山の内奥へと通づる地下洞窟があります。

 伝承によると、それが闇桜へ繋がっているということでした。


□ □ □ □


 ――ピトン。

 広大な洞窟の天井から、一滴の雫が滴り落ちました。

 スーッと尾を引いた雫は桜の花びらに触れ、パチンと弾けてしまいます。静かにゆらゆら揺れる淡い花弁を、白い人差し指が滑らかになぞりました。

「嗚呼、闇桜は今宵も華やかに......」

 洞窟は、ひんやりと湿気を孕んだ空気に満ちています。広大な内壁にはびっしりと苔がむし、所々その間より石英の鋭利な結晶が顔を覗かせておりました。その僅かな輝きが苔に宿り、洞窟全体がボウッと幻想的な残光に揺らめいています。

 そして、洞窟の真ん中に聳える巨大な桜の木、そこに一人の黒装束の少女が背を預けておりました。

 ふと、少女の頭上のつぼみが一つ、ふわり膨らんだかと思えば柔らかに花開きました。ついと顔を上げた少女は、それを目にしてにっこり微笑みます。

「復た一人、死にきかし」

 漆黒の衣紋の袖で、少女は嬉しげに口元を覆いました。

 しかしその少し後、今度は隣に咲いていた花弁が途端にしおれ、パッと散ってしまいます。

 くるくると舞い散る花びらを手に掬い上げ、少女は悲しそうに目を伏せました。

「復た一人、生まれにしかな」

 そう呟くと、フッと花弁を洞窟の闇に吹きました。チラチラと細かくなり、消えてゆく花びらたち。

「――おい!」

 しかしその瞬間、視線の先から声が響きました。

「畜生ッ。ここか、伝承にあった場所ってのは......!」

 そこに立っていたのは、体躯のしっかりした一人の青年でした。ですがその衣服は総身が泥にまみれ、まさに満身創痍といった様子。地上の村の者でしょうか、よく見ると抱えた一振りの木刀に体重を預けておりました。

 黒衣の少女は、ため息を一つ吐くと細い首を傾けて云います。

「とく帰らるべきやして。此処は常の人のまかる場ならざるに」

「黙れッ」

 しかし青年はそう叫ぶや、ふらつきながらも木刀を構えます。日も差さぬ迷宮のような地下洞窟を、青年は闇桜を探し求めていったいどれほど彷徨ったのでしょうか。その墨色の瞳は、憤怒と狂気の狭間で揺れ動いておりました。

「化け物め、暜(あまね)の敵......!」

 猛然と走り出した青年は、唾を飛ばしながら少女に木刀を振り上げます。

「あな」

 しかし、少女は失望したように吐息を漏らすと、スッと片手を伸ばしただけでした。

「分からせ聞こえして」

 次の瞬間、苔の地面を突き上げて幾多の桜の根が現れたかと思うと、青年の身体を絡め捕ったのです。

「なっ......面妖な化け物が!」

 必死にもがく青年の手からこぼれ落ちた木刀。それをそっと拾い上げると、少女は縛り上げられた青年の傍らに歩み寄ります。

「何か言い残ししためしやある?」

「あぁ、あるとも!」

 青年はなおも両手で根を掴みながら吠えました。

「貴様ッ、貴様のせいで暜は死んだんだ! だから最後に......最後に貴様だけは殺してやる!」

 その、魂の叫びに。

 少女は小さく目を見開きますと、自身の頤に細い指を当てました。

「……村ん『伝承』の憎きに違うて?」

「違う! 集落も犠牲も言い伝えも、そんなの全部どうだっていい! 俺が殺したいのは貴様だけだ!」


“もうよき、この男引き裂きてよ”


 少女はたった一言、そう命令するだけでよかったのです。

 しかし、少女はそうはしませんでした。

「......いま少し、捕らへ留め申し上げて」

 そう静かに根に命じますと、漆黒の袴の裾を翻して闇桜に顔を向けたのです。

「いな、せめて我が話し人にもせまし」

 言い訳がましく呟いた少女の眼前に、闇桜は燦然と花開いておりました。


□ □ □ □


 かくて囚われの身となった青年は、闇桜の守人たる少女の話し相手にさせられたのです。

「おい、俺はお前の慈悲など縋らんぞ!」

 根の拘束を掛けられたまま、強情にも世話を拒む青年に、少女も数日の間はつっけんどんに接していました。


「然るに君は、なして此の秘境に来しや?」

 ある日の昼下がり――と申しましても、洞窟は常に時が止まっておりますが――、少女はツンと青年に問いかけました。

 青年はすっかり気力を削がれた風でしたが、その言葉に反射的に歯を剥きます。

「知ってるだろ、闇桜の伝承くらい」

「嗚呼、もとより」

 青年は口元を歪めると、用心深げに、しかし好奇心を隠せぬ様子で尋ねます。

「おとぎ話には聞いていたが……本当なのか、この桜が俺ら村人の生死を司るってのは」

 これに少女は、背後の樹影を腕で示しながら頷きました。

「これ、常の人にはよも分からじ。されど僻事にはあらず、此の闇桜は古より人の生を導かせたまふ御神木なり」

「御神木、か」

 吐き捨てるようにそう云うと、青年は少女を睨みつけます。

「その闇桜の呪縛によって、いったい誰が死んだと思ってんだ!」

「夫れ、人の失すは世の理ならずや? よも君だに知らぬことには非ざらむ。ただ失せ給ひし人の御霊、この闇桜の花となるのみ」

「いや、闇桜は呪いだ。暜の死が証拠になる。貴様は人の子が憎いっていうのか!?」

「されば尋ねむに、木こりは木の憎きによりて木を切るものかは」

「……っ!」

 言い返せず口を噤んでしまった青年を、少女はさも可笑しそうに口元に袖を当てて見返します。

「......少なくとも俺は、闇桜と貴様が憎くてここに来た」

「そは否び難きことやして」

 皮肉げに言う少女に、青年は諦観さえ感じさせる顔で言葉を投げかけます。

「結局貴様らにとって、闇桜なんて八百万の神々の娯楽なんだろ?」

「そもまた否び難し、されど亦た哀しき人の定めなるよ」

 そう寂しげに云うと、少女は傍の石英の結晶から、闇桜の葉で作った器を取り上げました。これは最前より、天井から滴り落ちる露を溜めていたのです。

 口元に差し伸べられた露の器を、しかし青年は首を振って拒みました。

「貴様の食物など受け入れるものか」

「この桜露、肉の疲労に良いのでやして」

「それでもだ」

「されど若し君いま絶えなば、いつか我を殺める時機は永久に失われなむ」

 そう云われると、青年もそんな気がしてきて、しぶしぶと云う風に露に口を付けました。

「......甘い」

「せやかて。美味に思ふて貰へて我も嬉しや」

 二人の瞳が見つめ合います。

 洞窟は静寂に満ちておりました。


□ □ □ □


「『暜』なる方のこと、ぜひ聞かせやして」

「......暜は俺の妹だった。唯一の肉親だったが、お前と闇桜に呪い殺された」

 その言葉に、少女はきょとんとした表情で首を傾げます。

「我と闇桜の、村人の魂を見送りかへすこと久し。何ぞ我と判じしか?」

「暜は亡くなる数日前に、病床でしきりにうなされていたんだ。どこか暗くて深い洞窟で、少女と桜の樹が私を呼んでるって」

 青年はキッと目線を上げると、眼前の闇桜を睨みつけました。

「彼女の魂は、この桜樹に吸い取られてしまったのか」

「否よ。彼(か)はさるべき処に還り給ひしのみぞ。御霊は今はなほ君や我と共に在るのやして」

「……どういうことだ?」

 それには答えず、少女は黒い衣装の前をかき合せて立ち上がりますと、闇桜の袂に歩み寄りました。そして、そっとその幹に手を添えますと、小さく言霊をつぶやきます。

「『暜』なる方の御霊、お呼び申し上げてよ」

 次なる刹那、闇桜の一角で一輪の花がボウッと輝きを放ちました。

 少女はつと手を伸ばすと、その花弁を指さします。

「そが君の妹君なり。其の花、ひとたび次なる輪廻に流れぬれば、すなはち定めて枯れぬる契りなり。闇桜は君の言ふやふに呪ひにはあらず、此れは輪廻を待つほどの御霊の仮初の宿り木なり。なほ未だ彼の想ひ、其処に留まりたるのみなれど、亦た彼は死せざるよ」

 はっと瞠目すると、青年は根の合間から必死に首を伸ばします。

「暜……」

 そして、苦しげに首を振りました。

「信じられない……この文明時代に、まさかこんな……」

「人の為せる技は一代の理、霊の為せる法は千代の理やかし。然れども、おくらせし妹御のことは君、豈に心苦しからずや」

「……あいつの魂は、何か云ってなかったか?」

「暫し待ち給へかし」

 少女は再び目をつむると、そっと太い幹に語りかけます。

 そしてしばらくすると、薄っすらと微笑んで顔を上げました。

「どうぞ兄御に宜しゅう願い申します、との言の葉、我しかと受け取り侍りしよ」

 青年の両の瞳から、幾本もの熱い涙が溢れ出しました。

「くっ、暜……っ!」

 そんな青年に、少女もそっと寄り添うと、黒染めの袖で優しくその涙を拭います。

「嗚呼、豈にあはれの浅からんや。我しも心の底より悔やみ申し上げんかし」

「……くっ、ありが......とうっ……」

 洞窟に、すすり泣きが満ちていました。


□ □ □ □


「さても地の上の世は、近頃いかにやおはする?」

 さらに数日が経ち、青年も洞穴での暮らしに慣れた頃のことです。青年の傍にちょこんと座り込んだ少女が、遠慮がちに尋ねました。

「ん、地上のことか?」

 コクリ。

 小さく頷いた少女の瞳は、熱い興奮で揺れています。

 仕方ねぇな、と青年は根の中で身をよじると、視線を上方に彷徨わせました。

「まず、お前は一体いつからここに棲んでるんだ?」

「千代を一つ重ねし古より。されど我も未だ、なま守人なり」

「そうか、じゃあ相当昔だな」

 千年経っても新人とは……と青年は内心ぼやきつつ、どう説明すべきか頭を悩ませます。

「じゃ、鎌倉幕府は分かるか?」

「蝦蟇食らふ瀑布?」

「駄目だな、こりゃ」

 うゔぁー、とため息を吐きながら、青年はまたしても天を仰ぐのでした。


「……んで第二次世界大戦が終わって、この日本は完璧に敗北を喫した訳だ。でももうそこからずいぶん復興して、この国全体がかなり豊かになったんだぜ。今じゃ世界の最先端を走ってるし、こんな山中まで国道が走ろうとしてるんだ」

「あなや、驚くべきこと!」

 数日に渡る長い話が終わると、少女は興奮気味に身を震わせました。

「そやかて、さほど長き刻を我はこの洞に籠もり居りしかし」

「ん、別にいいんじゃないか? お前も俺と地上――」

 そこで、青年はハッと口を噤みました。

 時々、自分がどうしてここに来たのかを忘れそうになっている自分に気付いたのです。そして、眼の前の少女との会話を純粋に楽しんでいる自分がいたことにも。

「……悪いな」

 青年が俯きますと、少女の表情にも影が差しました。

「そやかて、君もや知りたらん? 我の永遠に此処を出づること叶はざるを」

 小さく寂しげなため息を吐くと、少女は静かにつぶやきました。

「君は覚えたるか、我の初めて君を見し時の曰く『我は伝承の憎きにあらず! ただ失ひし妹の敵討ちのみ!』と」

 クスリと笑みを漏らすと、少女は黒衣の袖を握りながら続けます。

「そは我にとり驚くべきことなりけり。古よりこの洞に行き着きし勇の者、およそ十を数ふるなり。されど皆、伝承の探求にのみ心を惑はし、我はその様をあさましく思ひ、之を疎み憎むこと久し。……然るにただ君のみ、かの日、我と我が目を見据えたり。君は我を、個の我と見なして対峙しけり。そは我にとり……せちに、なのめならず嬉しきことなりけり」

 最後の方は尻切れトンボになりながらも、少女はそう云い切りました。フイとそっぽを向いた頬には、ほんのりと朱が差しています。

 しかし青年は、どこか悲しげに首を振りました。

「実は一つ、黙ってたことがあるんだが……」

 どこか遠くから、低い地響きのようなものが聞こえてきます。

 振り向いた少女の、僅かに潤んだ瞳を申し訳無さそうに見返しますと、青年はこう告げました。

「どの道、俺たちはお終いなんだよ」

「……なして?」

 不意に、その地響きが急激に高まります。

「済まない」

 その刹那――。


 ドッカーン!


 大きな衝撃音とともに、洞窟の壁が崩れ落ちました。

「きゃっ!」

 地面が跳ね上がり、闇桜の枝がぞうぞうと騒ぎます。やがて激しい揺れが収まると、土煙がもうもうと立ち込める岩壁の奥から、角張った大きな影が姿を現しました。

「なな、そは何ぞや……」

「シールドマシンだ」

 わなわなと恐れ慄く少女に、青年はポツリと告げました。

「言ったろ、この山にも国道が出来るって。その計画の一環で、ここにトンネルを通すって聞いたんだ。だから俺は、元はと言えばその前に、自分の手でお前を殺したかったのに……」

 しいるどましん? とんねる?

 何のことだか、未だ世間知らずの少女には全く合点がいきません。それでも一つだけ、はっきり分かることがありました。

 あの鉄の猛獣は、自分と闇桜を葬り去ろうとしている。

 刹那、地下に一際激しい轟音が鳴り響きました。

「あっ!」

 洞窟の崩壊が始まったのです。頭上の岩盤や石英の結晶が剥がれ落ち、次々と洞窟へ降り注ぎます。苔の淡い光が薄れてゆき、闇桜の枝が滅茶苦茶に折れて悲鳴を上げました。

 ひたすら揺れる視界の隅で、少女は、ほどけた根の拘束を振り払って青年が立ち上がるのを目にしました。英気を蓄えていた青年はパッと地を蹴りますと、地面に転がっている何かを掴み取ります。

 それは、あの木刀でした。

 この時、少女は自分の運命を悟りました。

 彼女は尻餅をついたまま、じっと動こうとしませんでした。降り注ぐ土砂や岩片が黒袴を汚し、肌を痛めつけ、血を滲ませます。それでも少女は動きませんでした。

「せめて……せめて最後は、君の御手で殺め給へ」

 目すらも開けれないほど絶え間ない土砂落石の合間に、木刀を振り上げる青年の姿が霞みます。

「我は君に会えて、まこと嬉しかりしを――」

 

 次の瞬間、世界の終わりのような衝撃音が響き渡ります。

 そして、全てが静寂に帰しました。


□ □ □ □


 少女は目を瞑ったまま、恐る恐る腕を動かしました。落岩の打撲で身体中がひどく痛みますが、それほどの怪我では無いようです。

 さらに衣紋の下で脚をモゾモゾ動かし、息を吸おうとして土煙にむせました。カフカフと数回ほど咳き込み、それが落ち着くとこわごわ目を開けます。

 眼前のごく近く――つと顔を上げれば接吻さえ出来そうな距離に、青年の顔がありました。その顔は不思議と穏やかな笑みを湛えておりました。

 ふと黒袴に生温かいものが滴り、少女は目線を下げて、アッと叫びます。青年の腹を、鋭利な結晶が刺し貫いていたのです。赤黒い染みが、青年の汗まみれの衣服にひたひたと広がっておりました。

 もし青年が身を投げ出して庇ってくれなければ、今ごろは少女が串刺しにされていたでしょう。

 痛いほどの沈黙が、一刹那だけ二人の時を繋ぎ留めます。

「なして......?」

 ドサリ、と自分に倒れ掛かった青年の身体を、震える腕でかき抱きながら少女は問いかけます。

「なして我を......なして、なして!?」

 ボロボロと涙をこぼし、しゃっくりを上げながら、しかし青年の顔を直視することができないまま少女は叫びました。

「......だってよ、お前と......闇桜ぁ、まだ憎いけ、ども......」

 息も絶え絶えの青年は、何とか最後の言の葉を紡ぎ出そうと空気を吸い込みます。

 胸を重ねた二人の呼吸が、ゆっくりと調和しました。

「......お前には、まだ......知るべき、広い世界が……待って、るから......」

 ゆっくりと、儚く消えていくように青年は瞼を閉じました。泥にまみれた総身から力が抜けてゆきます。温かな呼吸が今は感じられません。少女が呼び掛けても、その口からは何一つ言葉は返ってきません。

「あな、復た......」

 濃色の瞳から大粒の涙を流し、物言わぬ骸を抱きしめながら、震える声で少女は云いました。

「復た一人、死にきかし......」

 シールドマシンの再起動する音が、獣の唸り声のように、半ば泥に埋もれた洞穴に響き渡ります。

 そこにはもう、誰の呼吸もありませんでした。

 へし折られ、ぼろぼろになった闇桜。その押しつぶされた枝の先端に、一際美しい二つの桜の花が咲きました。その並んだ二輪の花弁は、闇桜に萌えた内で最も華やかで、かつ儚く、そして可憐であったのでした。


(終)

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