絵画『愛するひと』
山本アヒコ
絵画
「…………」
男が家の中で絵を描いていた。背筋を伸ばして真剣そうにしながら、その表情は穏やかで口には笑みすら浮かんでいる。
小さな窓からは午後の穏やかな陽光が空間に帯をたすき掛け、浮かぶホコリすら妖精の幻影に見えてしまう。そんなどこか現実から切り離された世界が、この狭い部屋につくられていた。
たてつけの悪いドアがきしんで開く音で、その世界は終わる。
「また描いてる。どう、できた?」
「いいや、まだだよ。僕が愛するひとの美しい姿を、完璧に描くのは大変なんだ」
手を止めない男の首に両腕を回し、女が抱きつく。ろくに手入れもされていない波打つ髪に、女は頬をすりつける。
「もう十分いい絵だと思うけど。本物より美しいかも」
「そんなことはないさ。まだまだ表現しきれないよ、この美しさは」
キャンパスにはひとりの女性の姿が描かれている。頭から爪先まで全身が描かれ、顔は横を向いている。長い髪の毛が風になびいていた。
美しい絵画を、女はうっとりと眺める。恋人の目には自分がこんなふうに見えているのかと、嬉しさと自己陶酔に酔う。
男は薄い笑みのまま、ただ筆で絵の具を塗り重ねる。
「ほお。これはいい絵だ」
倉庫の整理と掃除を終えて戻ってきた店員の女は、店主の声に立ち止まった。
「湖と山、青と緑色が美しい」
「喜んでもらえて嬉しいです」
店主の男と話していたのは穏やかな笑顔の青年だった。髪の毛は伸びっぱなして毛先があちこちにはねているし、服も摩りきれた部分が目立つがどこか気品があった。背中にはイーゼルとキャンパスが入った大きな背負い鞄、これもまた大きな肩掛け鞄がひとつ。この鞄もくたびれている。
「この絵を買いましょう」
「ありがとうございます」
ふいに絵描きの青年が女のほうへ顔を向けた。目が合うとわずかに口元の笑みを深くする。それを見た女は気恥ずかしくなり、顔を伏せるとその場を足早に去った。
数日後の休日、女は街中でイーゼルを立て絵を描く青年と再会した。
「この前、お会いしましたね。実はあなたをモデルに絵を描いてみたいのですが、どうでしょう?」
女はモデルになることを承諾し、やがて二人で暮らすようになった。
そしてある日、二人は姿を消した。
とある絵画コレクターの自宅にその絵画はある。
『愛するひと』と題された人物画は、作者不明だ。
美術的価値よりも、その異常性からこの絵画は高値で取引される。
異常に分厚く塗られたキャンパスには、人間の一部が塗り固められていた。横を向く女性の髪の毛には本物の髪の毛が。肌には皮膚、目には角膜、爪の部分にも本物の爪のかけらが絵の具の下に埋まっている。
恐ろしいことに、それらは同一人物の体組織ではなかった。少なくとも十数人の肉体の一部が使用されていた。
キャンパスの裏には作者の直筆で文章が書かれている。
『僕が愛するあなたを描くのは苦しく、しかし色を重ねるたびに美しくなる』
『だから離れることができない』
絵画『愛するひと』 山本アヒコ @lostoman916
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