策略と謀略
買い物用の鞄を小脇に抱え、人目につかない路地裏をユリウスは早歩きで通る。令嬢から賜ったお使いの任務を早々に終え、本命の業務へと赴く最中だった。デーベル男爵から密かに渡された手紙に書かれている集合場所を確認しながら、活気づく街の人混みを避けて歩く。目的地に近づくたびにユリウスの心は重く沈んでいった。
このタイミングで接触を図ろうとしてくるということは、定期報告をしろということだろう。令嬢の御機嫌取りに時間を取られていたユリウスには大した成果報告もないため、向かうのが既に億劫だ。とはいえ行かないという選択肢はユリウスにはそもそもない。
庭園でミツェルと会って以降、ユリウスは彼女との接触の機会を得られないままでいる。
今日の朝、紅茶の茶葉を買ってくるよう命じられた時も屋敷の執事を通じてだったため、また似たような雑用かとユリウスは思った。それによって一人の時間を確保することが出来たため、こうして主人との接触の機会が得られたのは良かったのだが、同時に未だ令嬢に取り入ることが出来ていない事実を苦々しくも思う。
ユリウスを見るたびに子ネズミのように体を震わせるミツェルのことが妙に引っかかる。あの時、どれだけ丁重に扱っても思い通りにならないミツェルへの苛立ちでつい本音をぶちまけてしまった。密偵としては三流以下の言動だ、あれだけ勘のいい女なら気づかれても不思議じゃない。
しかしそんなユリウスの心配は杞憂だったようで、結局伯爵家をクビになることなく、こうして付き人の仕事を仰せつかっている。まあ、やっている内容は下男と相違ないのだが。
ミツェル・ホワイトローズのことが分からない。彼女は一体どこまで知っている?
そんな状態で一体何を報告すればいいのか。ユリウスの暗い心持ちに反比例するように、街の賑わいは勢いを増していく。令嬢の手腕によって一見栄えているように見えるこの街も、ユリウスから見れば仮初の平穏にしか映らなかった。
「来たか。」
ハンチング帽を目深に被り、黒いコートに身を包んだデーベル男爵が路地裏の隅でユリウスに声をかける。しわがれた声とその眼力にユリウスは彼がデーベル男爵本人であるとすぐに気づいた。
男爵自らこんな場所に訪れるなど本来可笑しいのだが、人を介せば介すほど情報の精密さは低下していくというのが彼の持論だ。国王の忠誠心を強く持ち格式を重んじる堅物の癖に、妙なところで行動派、それがユリウスの主人であるデーベルの性質であった。
「まずはこちらから報告をしよう。長年動きを見せなかったハーパー・ホワイトローズの尻尾をついに掴んだ。ハーパーが敵国と内通している売国奴の可能性があるという話はしたな?」
声を潜めて告げるデーベルへ、ユリウスは重々しく頷く。デーベル男爵が伯爵へその疑いを持ち始めたのは八年前のことだ。それ以前からデーベルとハーパーはよい友人関係を築いていたようだが、ある日を境にハーパーの様子が徐々におかしくなっていったことに気が付いたらしい。
始まりは伯爵夫人が亡くなった日からではないか。デーベルはそう予想していた。
鉄仮面が日常のデーベルがそれをどう思っているか知らないが、旧友でさえ国のためなら疑って見せるデーベルに底知れない何かをユリウスは感じた。
「ずっと上手く隠し通していたハーパーだったが、国を憂う同士のように寄り添えばようやくこちらに靡いてくれたよ。逆にいえばハーパーが本格的に動き出したともとれるがな。」
冷笑するデーベルを前に、事態が加速し始めていることを悟る。その嗤い顔がどこか寂し気でユリウスは何も言葉を返せなかった。
「ハーパーは出張と称して敵国の諜報員と密会を繰り返している。他の貴族が開いたパーティーなどを利用し、巧妙にアリバイを用意して複数回だ。その幾つかに接触することが出来たが、正直碌な証拠は手に入らなかった。本当に臆病で、慎重な男だ。だがこれでハーパーの疑いは確信に変わった。」
デーベルは切れ長の目を更に細めて空を睨む。握られた拳の強さから、デーベルにとって国を裏切ることがいかに大罪かよくわかった。
「ハーパーの決定的な証拠はホワイトローズ伯爵家に隠されているのではないかと私は睨んでいる。今度は君の報告を聞かせてくれ。」
デーベルがこちらに報告を促す。その真剣さを前に、嘘偽りを述べることはユリウスには出来なかった。
「伯爵家への潜入には一先ず成功いたしました。ハーパー伯爵を誘導し、ミツェル・ホワイトローズ付きの侍従になることは出来ましたが、どうやらそこで令嬢に疑いをもたれてしまったようです。昨日今日になって監視の目が薄くなってきたため、メイドの目に着かないよう屋敷の捜索をしていましたがこちらも大した情報は手に入れられませんでした。」
「申し訳ありません。」とユリウスは深々と頭を下げる。どんな叱責も受ける覚悟だった。
「ミツェル・ホワイトローズの付き人は辞めさせられてないのだな?」
「…?はい。いちおう、ですが。」
デーベル確認が何のためのものか分からず、一拍遅れて頷く。それを見たデーベルは「いや、お前はよくやっている。」と誇らしげに言った。何に対してよくやっているのか、ユリウスには理解できない。
「私がホワイトローズ家に放った密偵は全て何らかの理由をつけてミツェル・ホワイトローズに首を言い渡されている。行動を起こした者も、起こしてない者も全てだ。」
「全て、で御座いますか。」
「妙に鼻の利くやつだ。私達の思惑が全て筒抜けになっている気さえしてくる。」
自分よりもはるかに年下の少女に踊らされていることに、デーベルは顔を顰める。その事実はユリウスの納得できる範疇を優に超えていた。
だって、伯爵夫人が亡くなった八年前彼女は――
「当時七歳だったミツェル・ホワイトローズにそんなことが可能だと、そうおっしゃりたいんですか。」
現在のミツェルの年齢は十五歳。十六歳の成人まで残りわずかではあるが、未成年の身の上で伯爵家代理を務めていることすら驚異的だというのに、まさか十を越えない時からそのような逸話があるというのか。それでは、まるで。
「まるで神童のようだよ。ミツェル・ホワイトローズは。」
ユリウスの考えを代弁するかのように、デーベルが呟く。ユリウスが実際に出会ったミツェルの印象とは酷く乖離した評価のようだったが、ユリウスの素性を見抜き、自身の考えを毛ほども掴ませない彼女の振る舞いが全て計算されたものであったと思うと鳥肌が立った。
だが、それでも。
庭園で会った彼女は平凡で少し気弱な普通の令嬢のようだった。ユリウスの一挙手一投足に怯えて、かと思えばユリウスのような侍従を気遣う姿勢も見せる。ユリウスに同情し差し入れを渡したメイドも、令嬢のことを本物の主人の様に慕っていた。
齢七歳の頃から伯爵家を牽引してきたミツェルが神童でないとは言わない。しかしそれは彼女の一面にでしかないと思った。
「伯爵邸で会ったミツェル・ホワイトローズはごく一般的な令嬢のように見えました。彼女は本当にハーパー伯爵と共謀しているのですか。」
ユリウスの任務はハーパー・ホワイトローズの犯罪の証拠を見つけること。娘の善悪などどうでもいいはずなのに、小動物のような令嬢の姿がユリウスの庇護欲を甘く擽った。
本来不要な問を受けたデーベルはわずかに考え込む素振りを見せる。そして一枚の紙をユリウスに見せた。
「これは――」
「ミツェル・ホワイトローズが作った伯爵家領地管理の報告書だよ。私が潜入した密会でハーパーが参加者に見せていたものだ。これはあくまで私が写した偽造書だがな。」
――既に報告書も出来ておりますので、すぐにお渡しいたします。
確かにミツェルは伯爵にそう言っていた。あれは領地経営の報告書だったのか。当主であるハーパーに渡すのは当然のように思えるが、八年も当主代理を務めているのに律儀なものである。
書類のざっと目を通すと、月の収益、人口の増減、そして立てた政策などホワイトローズ領の内情が事細かに書かれていた。これを、他人に見せただって?
「これでは、自分の手の内を晒すようなものではないですか。伯爵家に一体何のメリットがあるというので?」
「おそらくこの国での自身の権力を敵国の人間に見せつけるためだろうな。あえて腹のうちを晒すことで、自分を信用させる狙いだろう。国家転覆が起これば、ホワイトローズ家だってないも同然の代物だ。」
それにしたってリスクが高すぎる。そもそも実物の報告書が見つかれば、それだって証拠になりかねない。
「ハーパーは敵国に伯爵家の財産を横流ししている。伯爵家が公にしている帳簿には間違いなく改竄の跡があるはずだ。私はミツェル・ホワイトローズがそれに一枚嚙んでいると睨んでいるが…」
ユリウスが潜入していた数日間、ミツェルは確かに一日のほとんどを執務室で過ごしていた。改竄するのであれば伯爵ではなくミツェルの可能性が確かに高い。
しかし、あれほど従者や領民を大切にしているミツェルが国家転覆を計るものか?ないも同然の代物なら、気に掛ける必要だって、真面目に働く必要だってないはずだ。
微かな違和感が一つの結論を見出していく。証拠品となりえる報告書、あれにはミツェルの名前しかない。ならば。
「可能性の話でしかありませんが、もしもミツェル・ホワイトローズが全くの無実であるとするならば、ハーパー・ホワイトローズは娘のことをスケープゴートにして敵国に逃げるつもりではないでしょうか。」
ユリウスの推測を聞いたデーベルの肩が僅かに揺れる。デーベルは顎に手を添え考え込む素振りを見せた後、横目でユリウスを見つめた。
「一応聞くが、そう思う根拠は?」
「…証拠は、ありません。私が令嬢を見て、そう予想しただけです。」
「ミツェル・ホワイトローズが利用されているだけの可能性か…」
良くも悪くも生真面目なデーベルは、部下の妄言ですらしっかりと拾って自分の頭の中へ入れる。ユリウスからその話をしたというのに、真剣に思考するデーベルを見ていたたまれない気持ちになってきた。
「であれば、その事実を確認するのもお前の仕事にいれておこう。今後もミツェル・ホワトローズに接近するお前なら否が応でも分かるはずだ。」
「かしこまりました。…ありがとうございます。」
「私達が告発するのは国家転覆罪だ、濡れ衣があってはならん。」
敵国に情報を流し、資金援助を行う。それは幾ら伯爵家の当主とはいえ死刑を免れない大罪だ。
「まあ、幼少期から家を取り仕切ることを義務付けられていた少女に、罪を問えるのかははなはだ疑問だがな。」
デーベルの言いたいことはよく分かる。貴族にとって年長者というのは絶対のものだ。まして父、そして当主であるならば、ミツェルはただ言われるがままに義務をこなしていただけの可能性があった。それにミツェルはまだ未成年だ、責任能力がない。
逆に言えば、ハーパーの方は極刑を免れないだろう。友人を処刑台へ送るデーベルの気持ちなど考えたくもなかった。
「このユリウス、失態は必ずや成果で挽回してみせます。ハーパー・ホワイトローズの悪行を必ずや白日のもとに。」
決意表明と共に、デーベルへ敬礼する。いつ戦争が勃発してもおかしくない緊迫した状況で、悠長にしている余裕はもうない。身を固くするユリウスの肩をデーベルが優しく叩いた。
「肩の力は抜いておけ、潜入には柔軟な行動が不可欠だ。まあその点、お前はよくやってくれているが。」
デーベルの称賛される覚えのないユリウスは、肩に添えられたデーベルの腕に酷く戸惑った。デーベルは部下であろうと礼節を重んじる人間であるが、手放しに優しくするほど甘い人物ではないことはユリウス自身がよく知っている。
だからこそ、デーベルの行動は気味が悪くて仕方がない。密会への潜入で何か悪いものでも食べたんじゃないかと思うほどに。
「あの、そんなに褒められるようなことを俺はやった覚えはないんですが…」
「なんだ。成果として出ていないからと謙遜しているのか?」
ユリウスの狼狽えようにデーベルは首を傾げる。首を傾げたいのはこっちの方だ。
「ハーパーから聞いた話だが、どうやらミツェル・ホワイトローズはお前に気があるらしい。警戒されているのもそういう理由だろう。お前に色仕掛けなんて芸当が出来るとは思わなかった。」
「…は?」
何を言っているのだろう、この主人は。やはりどこかで何か妙なものを拾い食いしたに違いない。
あの令嬢が自分に惚れている?俺を見るだけで血相を変えて体を震わせる女をどうやったら惚れていると解釈できるのだろうか。伯爵家から出ていけと昨日言われたばかりだというのに。
感心した様子のデーベルとの間に微妙な空気が流れる。気を取り直すようにデーベルは咳払いを一つして、「とにかく。」と続けた。
「お前に一目ぼれしたとミツェル・ホワイトローズが言ったのは紛れもない事実だ。そこを利用しない手はない。伯爵家に隠されている改竄される前の帳簿を必ず見つけてこい。」
あくまで作戦会議の体をなしているこの場に、これ以上茶々を入れるのはどうにも憚られる。ユリウスは否定したくなる口を抑えて「かしこまりました。」とだけ言った。
ミツェル・ホワイトローズが俺に惚れているというのなら、今までの言動全て何かの照れ隠しだったとでもいうのだろうか。
「そろそろ解散しよう。長居すれば双方疑われかねない。」と言って足早に立ち去ろうとするデーベルに、ユリウスは最後に一つを声をかける。
「あの…俺の体臭って臭いですか。」
色々な意味で気まずかったデーベルとの会話を終え、あらぬ疑いをかけられぬよう伯爵邸へ急いで戻る。渡された買い物籠の中には令嬢から頼まれた紅茶の茶葉のほかに、自身の体臭をかき消すためのシャンプーや香水が入っていた。
「い、いい加減離れて頂戴!あなたの匂いが酷すぎて倒れてしまいそうだわ!」
令嬢の言葉は今もユリウスの脳内に焼き付いて離れない。そんなことを他人に言われたのは生まれて初めてで、未だユリウスの心に鋭く突き刺さって抜けそうになかった。まして必死な顔つきの令嬢が嘘を言っているとは思えないのだから、なおさらだ。
好みの男でも不快な体臭1つで恋が冷めるのが人間と言うもの。此れから色仕掛けでもなんでもしようと画策しているユリウスにとって、早急に解決しなければならない問題であった。
「ホワイトローズ家だからと薔薇の香水を選んだが、安直だっただろうか。」
令嬢の好みなど微塵も分からないユリウスは小さく不安を零す。それはお使いである紅茶についても同様だった。
執事を通して伝えられた紅茶のリクエストは「貴方の好みのものを。」だ。一体何を試されているのやら。デーベルとの約束ぎりぎりまで迷った末にユリウスが選んだのはローズティーだった。当然、香水と同じ理由で。
ただの平民であるユリウスが貴族のように紅茶を嗜むわけがないため、ユリウスには好みの紅茶など存在しない。そういうところに気配りがいかないのは、彼女が生粋の貴族だからに他ならなかった。
民衆の喧騒をかき分けてようやく荘厳な屋敷が見えてくる。ただの庶民では立ち入ることすら許されない屋敷の門をくぐると、一人のメイドが不機嫌そうに立っているのが見えた。確か、あれはいつも令嬢の傍にいるルーミアというメイドのはずだ。
ルーミアはユリウスを見るや否や、不機嫌さを隠しもせずに「遅かったですね。」と冷たく言い放った。
「申し訳ありません。紅茶の知識があまりなくて、選ぶのに時間がかかってしまいました。」
「おや、貴方の好みを選ぶよう言ったはずですが?」
「ですが、これはお嬢様がお飲みになる紅茶ですよね?でしたら半端なものを選ぶわけにはいきませんから。」
殊勝な侍従の仮面を被りなおしたユリウスを、ルーミアは気に入らなそうに「ふん。」と言って顔を逸らす。出迎えにしては随分な応対だが、ここで口を滑らすような失態はもうしない。メイドに好かれていようが嫌われていようがどうだっていい。
「それで、ルーミア様は僕に何か御用でしょうか。お嬢様のご命令でしたらなんなりとお申し付けください。」
作り物の笑顔を張り付けてルーミアに微笑む。ルーミアは嫌そうに少しだけ黙ってから、徐に口を開いた。
「ミツェルお嬢様がお呼びです。その茶葉を持ってついていらっしゃい。」
ぶっきらぼうにそれだけユリウスに告げると、ルーミアはすたすたと屋敷の奥へ戻ってしまう。
あれだけ俺を遠ざけていたミツェルお嬢様がなんの風の吹き回しだろうか。デーベルの言っていたことは本当だったのか?
突然のことにユリウスは警戒心を覚えながらも、ルーミアの後ろをついていった。
「ルーミアです。ユリウスが先程帰ってきましたので、連れてまいりました。入ってもよろしいでしょうか。」
ルーミアが執務室の扉を軽くノックすると、奥から「少し待って頂戴。」という声と共にバサバサと書類を整理する音が聞こえてくる。ずっと調べることが出来なかった執務室にいきなり連れてこられたユリウスは、ルーミアに気付かれないように口の中に溜まっていた唾をごくりと飲み込んだ。
ミツェルがハーパーと共謀しているのなら、偽造された書類はこの部屋の中に隠されている可能性が高い。
いかにも重厚な扉を前にユリウスはそっと息を吐く。
「どうぞ。入っていいわ。」
ミツェルの声が奥から聞こえると、ルーミアが「失礼します。」と言ってゆっくりと扉を開けた。ユリウスもそれに続く。
部屋の中は思っていたよりも簡素な部屋だった。広い一室には机が二つ置かれているのみで、普段ミツェルが執務で使っているであろう片方には大量の書類が山積みにされている。遠目にそれらを見やるが、しっかりとした内容まではよく見えなかった。
そうしている間に、もう片方のローテーブルを挟むソファへ座るよう勧められる。情報収集は一度諦めて明らかに高級感のある赤いソファに腰かけると、ユリウスの体がボスンと柔らかいクッションに沈んだ。ミツェルがユリウスと反対のソファに腰かける。
「それでは私は失礼させていただきます。よろしいですか、お嬢様?」
「ええ、下がっていいわ。ありがとうルーミア。」
ルーミアが一礼して部屋から立ち去ると、何とも言えない沈黙が場を支配する。机の上に飾られた白薔薇の香しい匂いが一層はっきりと感じられた。白いワンピースに身を包んだミツェルお嬢様がユリウスを見て微笑む。
「お使いご苦労様。茶葉は無事買えたかしら?」
「はい。お嬢様に喜んでいただけるか分かりませんが、こちらをどうぞ。」
こちらを呼んだ意図のはっきりしないミツェルの様子を気にしながら、鞄からローズティーの茶葉を手渡す。銘柄を見た瞬間、「まあ。」と声を上げたミツェルの顔が僅かに輝いた。
「貴方、ローズティーが好きなの?私もよ。」
嬉しそうに紅茶を見つめるミツェルお嬢様へ、「はい、まあ。」と曖昧に返事をする。選択が少なくとも間違いではないと分かって、密かにほっと一息をついた。
ミツェルはそんなユリウスの様子は気にも留めず、「早速開けてもいいかしら。」とこちらに断りを入れて茶葉の入った容器の蓋を取る。ミツェルがそのまま用意していたらしいポットを手に取ったところで、ようやくお嬢様自ら紅茶をいれようとしているのだと気が付いた。
「お嬢様、紅茶でしたら僕が準備いたします。どうかお嬢様はお座りになっていてください。」
「大丈夫よユリウス。今日は私があなたを呼んだのだから、私にもてなさせて頂戴。こう見えて紅茶を入れるのはそれなりに上手なのよ?」
焦って立ち上がったユリウスを再び座るようミツェルが促す。侍従である自分が座っていて、主人であるミツェルが立っている状況が落ち着かず、つい腰が浮きそうになった。
部屋の中を充満する薔薇の香りが華か紅茶か、それともお嬢様自身のものなのか分からなくなってきた頃、ユリウスの前に一杯の紅茶が差し出される。「どうぞ。」という声に逃げ場をなくしたユリウスは、おそるおそるカップを手に取りローズティーを口に含んだ。
「…美味しい。」
ユリウスの口から思わず出た言葉に、ミツェルが顔を緩ませる。初めて飲んだ紅茶は程よく温かく、そして甘すぎないとても飲みやすい味だった。ユリウスの反応を確認したミツェルも紅茶をゆっくりと飲んでいく。
その優雅な所作にユリウスはミツェルをつい目で追ってしまう。流れる穏やかな時間がユリウスの警戒心を徐々に剥ぎとっていった。
「あの…ミツェルお嬢様、これは一体…?」
不可思議な空間に耐えられなくなったユリウスがミツェルに問いかける。ミツェルはすぐには答えず、不敵な笑みをたたえてユリウスを焦らすように持っていたカップを机に置いた。吸い込まれそうなパールの瞳と目が合う。
「一度落ち着いた場で話したいと思っていたの。失礼な態度をとってしまったお詫びも兼ねて、ね。」
話とは何だろうか。一切表情を変えないミツェルお嬢様の周りを漂う雰囲気に無意識に背筋が伸びる。デーベルとどこか似通った威厳を纏う彼女は、まさしく伯爵家当主に相応しい器だとユリウスに直感させた。
「僕のような人間に詫びなどされる必要はございませんが、わざわざこのような機会を与えてくださるなんて嬉しい限りです。」
場の空気感に飲まれぬよう、ユリウスは純朴な青年の皮を深く被る。ここでボロを出すわけにはいかない。令嬢の意図は未だに分からないが、これはミツェル・ホワイトローズに近づくまたとない好機だ。ピクリと体を揺らしたミツェルが「そんなにかしこまらないで。」と言う。
「貴方には、これから私の補佐として働いてもらおうと思っているの。慣れないうちはルーミアのサポートをお願いするつもりよ。」
「お嬢様、それは――」
「伯爵家の政務の手伝いよ。基本的には、この執務室でのお仕事ね。」
思いがけない提案に、ユリウスは顔を勢いよく上げた。「いいかしら。」と確認を取るミツェルに思わず即了承したくなるのを抑えて、「そんな大役、僕に務まるでしょうか。」とわざとらしく顔を伏せる。
渡りに船とはこういう状況の事を言うのだろう。
「不安に思う必要はないわ。何かあれば私を頼ってくれればいいし、いい勉強になると思うの。」
緩く首を振ったミツェルは机の下から誓約書を取り出しユリウスの前に見せる。その用意周到さから、端からユリウスに選択権はないことをすぐに察せられた。本当にどういう風の吹き回しだろう。ミツェルの笑みの奥に潜む何かに、ユリウスの体がゾクリと震えた。
「形式的な物だけど、伯爵家の情報を扱う上では重要なものだからよく目を通しておいてね。」
ミツェルがサイン用のペンをこちらに手渡す。断る理由のないユリウスは書類の要項にざっと目を通し、一番下に流れるように自分のサインを書いた。どうせ守秘義務など守るつもりのないユリウスには本当に形式的な物でしかない。
ユリウスが誓約書をミツェルに返すと、彼女は満足げに「ありがとう。」と言った。
「それじゃあ改めて、これからよろしくね。ユリウス。」
ミツェルの白い手がユリウスの前に差し出される。握手を意図して差し出された手に折角の機会だと思ったユリウスは、その手を取らずに立ち上がり、反対側にいるミツェルの元へ近づく。ミツェルはそのポーカーフェイスを崩し、きょとんとした様子でユリウスの様子を目で追った。
当主代理の伯爵令嬢から一変、何処にでもいる少女のような振る舞いだ。何処までが彼女の思惑なのか分からない。だからこそこの手で探る必要がある。
ミツェルの傍に寄ったユリウスは、差し出された手を取り、ミツェルの前にそっと跪く。そのまま彼女の細い指先に自分の唇をつけた。「ぇ…?」と言うミツェルの声を聴きながら、ゆっくりと彼女を見上げる。
「このような大役を任せていただき光栄で御座います。かならずやミツェルお嬢様の御期待に沿えるよう尽力したします。」
ユリウスは歯の浮くような台詞をまるで舞台役者のように滑らかに語る。見上げたミツェルの顔にはあまり変化がない。何も言わない白人形はユリウスを見て、ただ目を丸くしていた。
「…そう。」
暫くミツェルの手を取ったままにしていると、ミツェルは「も、もういいかしら。」と言ってユリウスの手から自身の手を引きぬく。
これは失敗だっただろうか。
ユリウスがそう思い立ち上がった瞬間、掴んでいた手とは逆の手を口元に添えたミツェルの白い肌に、隠せない程の朱色が混ざっていることに気が付いた。ミツェルもそれを分かっているのか、ユリウスの目から逃れるようにくるりと身を翻す。白いヴェールがユリウスの眼前に広がった。
「お仕事は明日からだから、今日のところはゆっくり休んで頂戴。そ、それじゃあね。」
錆ついた人形のようにギクシャクした動きをするミツェルによって、ユリウスは半ば無理矢理執務室の外へ出される。殊の外いい反応をするミツェルに妙な高揚感が胸の内から沸き立った。あながちデーベルの報告は的外れでもないのかもしれない。
これは使える。そう思うと同時に、彼女の秘めた素顔をもっと見たいと思ってしまった。
善悪が匂いでわかる伯爵令嬢は悪役令嬢を演じてでも悪人を裁きたい みるてぃ @misosiru_25
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