悪役令嬢と純朴従者

 ユリウスが伯爵邸を訪れて早数日。監視につけたメイドの定期報告を聞きながら、ミツェルは眉を寄せて渋い顔をした。


 お父様が再び出張で家を発った後、ユリウスの全てを一任されたミツェルはありとあらゆる雑用を彼に押し付けることに決めた。


 使われていない書庫の整理整頓や誰も立ち入らない庭の草むしりなど、令嬢付きの従者とはとても思えない雑用の数々を爺を通して彼に命じたのだ。


狙いは二つ。一つ目は、ユリウスをミツェルに一切近づけないため。二つ目は何の学びもない雑務に嫌気がさした彼が自ら逃げ出すことを期待してのことだ。


 今現在、ユリウスは炎天下の中一人で白薔薇の庭園の草むしりを行っている。

 伯爵邸の薔薇園などお母様がいなければミツェル以外に誰も見ないため、彼の頑張りは無駄としか言いようがないのだが、メイドの報告によればどうやら彼は命じられた仕事をただ淡々と、従順にこなしているらしい。


 汗を流しながら懸命に取り組むその姿に、つい飲み物を差し入れてしまったメイドの謝罪を聞きながら、ミツェルは頭を抱える。ユリウスの報告を聞くたびにミツェルの良心がズキズキと痛んだ。


 何の罪も犯していない善良な青年に無意味な雑用を押し付けるその様は、まるで無辜な平民をいたぶる悪役令嬢のよう。


 深く頭を下げるメイドに「大丈夫。監視に戻って頂戴。」と告げて、執務室の座り心地のいい椅子に凭れかかった。そばに控えていたルーミアが「少し休憩いたしましょう。」と言って紅茶を差しいれてくれた。


 ミツェルは基本どんな茶葉でもストレートを好む。相変わらず気分をリラックスさせてくれる柑橘の香りを嗅ぎながら、丁度いい温かさの紅茶を口に含んだ。


「あのメイドは駄目ですね。お嬢様の言いつけを破るなんて。後できつく言いつけておきます。」


「…そんなことはしなくていいわ。あの子の方が正しいんだから。」


 メイドが立ち去った扉の方を見ながら憤慨するルーミアにミツェルは首を振る。ユリウスのまるで何かの罰かのような待遇に同情的になるのは当然のことだ。ミツェルのような特殊能力がなければ気づけるはずもない。


「主人の言いつけを守るのはメイドとして当然の事です。それに、心優しいお嬢様が望んでそれをしているわけではないと理解しているでしょうに。」


 ルーミアの理解がミツェルの唯一の心の拠り所だ。だけどどうしてそこまで信じてくれるのかとミツェルが尋ねると、得意げに微笑んだルーミアがミツェルの対面に腰かける。


「だってお嬢様の審美眼は確かなものですからね。これまでだって盗みや横領を行っていた使用人を次々に見つけてらっしゃったではないですか。」


 ルーミアの言う通り、幼い頃から父親不在で臣下の助けを得ながら領地の運営を行っていたミツェルは、領地で起こる数々の不祥事を自身の力で解決していた。

 他者から見ればまるで心を読んでいるかのような御業だが、ミツェル自身は不快な匂いのする人間をただ告発していただけに過ぎない。それによって分不相応にも神童などと持ち上げられ、ミツェルが本来持ちえないカリスマ性を補えたがために、ここまで上手くやってこれたのだ。


 誇らしげに胸を張るルーミアに、ミツェルは誤魔化すように「あはは。」と笑った。本来のミツェルは神童でもなんでもない。未だに才色兼備の伯爵令嬢の仮面は重くミツェルの体に張り付いていた。


「今回もあのユリウスとかいう男から怪しい雰囲気を感じ取ったんですよね。なら、容赦なくやってやるべきですよ。」


「そういってくれると助かるんだけど、もし勘違いだったどうしようって心が痛くて…ちょっとくらい断ってくれてもいいのに。」


「あえて殊勝に振舞って気を引こうと考えているのやもしれませんよ。」


 ミツェルの才覚を完全に信じ切っているルーミアは、自信満々にミツェルを支持する姿勢を見せるが、自分の能力をどうにも信じきれないミツェルは「うーん。」と唸って机に伏せた。


「もしかしたらお嬢様本人を狙っているのかもしれません。誘拐、なんてことにならないように私共も警戒しておきましょう。」


「私を?そんなことしても意味はないでしょう。精々、身代金を貰えるくらいだわ。」


「そうではありません!お嬢様はご自身の魅力を全く理解しておられない。毎日大量に送り付けられる求婚の手紙を処分しているのはこの私なんですよ。」


 いまいちピンとこないルーミアの話を聞きながら、ミツェルは二杯目の紅茶を嗜む。

 婚礼の約束などミツェル本人に送ってもどうにもならない。ミツェルの結婚相手はお父様が決めるのだ。だというのにそれすら理解せず個人的に連絡を取ろうとする不届き者なんて、どうせ伯爵家の当主の立場が欲しいだけに違いない。ミツェルの魅力云々は関係ないように思えた。


 そもそもユリウスがミツェルに好意を持っているならもう少しましな匂いを漂わせるものだろう。あれでは良く見積もっても親の仇だ。


「心配でしたら、ユリウスとやらを送り返してしまってはいかがですか?理由など、幾らでも付けられるでしょう。」


「それは出来ないわ。お父様の顔に泥を塗るわけにはいかないもの。」


 だからこそ八方塞がりなこの状況に、ミツェルがひたすらにどうすべきか考え込んでいると、大人しく黙っていたルーミアが時計に目をやった。


「お嬢様、もうそろそろ先生がいらっしゃるお時間です。仕度をして移動なさったほうがよろしいかと。」


 ミツェルの言ったことをけして否定せず、こうしてサポートまでこなしてくれるルーミアはとてもよい従者だ。だからこそミツェルは彼女をこうして自分付きに任命したのだが、それによってもう一人の自分付きの従者のユリウスの待遇がどうしても際立ってしまう。

 執務室の書類を丁寧に纏めるルーミアへ、ミツェルはゆっくりと立ち上がって声をかける。


「私、一度ユリウス様の様子を見てくるわ。気にしてばかりでは勉強に集中できそうにもないもの。悪いんだけど、ルーミア、先生にはお帰り頂くようにお願い出来ないかしら。もちろん失礼のないように。」


「え、ええ、それはもちろん構いませんが、お嬢様自らいかずとも私が確認してきますよ?」


「ううん、自分の目で見てきたいの。気づかれないようにこっそり見てくるだけだから心配しないで。」


 ルーミアは少し渋るような反応を見せた後、「かしこまりました。先生にはまた後日にしていただくように話をしておきます。」と言って部屋を出る。続いてミツェルも戦場へ赴く戦士のような気持ちで執務室を出た。









 燦々と降り注ぐ陽光を浴びながら、ミツェルは一人静かに庭園を歩く。お昼時の雲一つない青空に浮かぶ太陽が容赦なくミツェルを照り付け、日夜政務で引きこもりがちなミツェルはそれだけで視界がくらくらとしてくる。

 こんな炎天下でユリウスは文句も言わずに草むしりをしているという事実が、ミツェルの胸を深々と抉った。


 迷路のように広大な薔薇園の中で、メイドから報告を受けていた辺りをこそこそと散策する。しかしその近くをぐるぐるとめぐっても、ユリウスの姿はどこにも見えなかった。


 もうここら辺の草むしりを終えて別の場所へ移動したのかと、辺りをきょろきょろと見回す。


 突如鼻をつく刺激臭がして、ミツェルは反射的に後ろを振り返った。


 そこには汗に濡れた髪をかき上げて、カゴいっぱいに雑草を抱えたユリウスの姿があった。数日ぶりに嗅ぐ悪意に満ちた激臭に、ミツェルの鼻の奥がつんとなる。


 けれどここが白薔薇園だからだろうか、数日前よりわずかにユリウスの匂いがましになっているため、なんとか正気を保つことが出来た。でもやっぱり、この匂いは勘違いなんかじゃない。


 ユリウスの方もまさかここにミツェルがいるとは思っていなかったのか、アクアマリンの瞳をこれでもかと見開いている。しかしそれも一瞬のことで、すぐに気を取り直したユリウスは作り物のような隙のない笑みを浮かべこちらに近寄った。


「ミツェルお嬢様、ご機嫌麗しゅうございます。まさかお嬢様がこちらにいらっしゃるとは思わず、大変失礼いたしました。お嬢様はお庭の散歩でしょうか?」


 王子様のような完璧な所作で微笑むユリウスに、「ええ、まあ、そんなところよ。」と曖昧に返事をする。当の本人に見つかってしまったパニックで、ミツェルの頭は完全に真っ白になっていた。


 まずい。これは本当にまずい。ミツェルから遠ざけるために雑務を押し付けたのにこうなってしまっては本末転倒だ。こんなところでユリウスと二人きりになるなんて迂闊にもほどがある。


 そう自覚したミツェルの体からはだらだらと変な汗が流れた。あの笑顔の裏には一体どんな思惑があるのだろうか。少なくともミツェルを恨んでいることは間違いない。


 ああ、せめて私のことはルーミアが見つけてくると信じよう。


 既に生を諦めたミツェルが固く目を閉じて後ずさると、石か何かに躓いた拍子に足を取られバランスを崩した。



「きゃっ!」


 短い悲鳴を上げ後ろに倒れるミツェルを手にしていたカゴを放り投げたユリウスが支える。背中に添えられた腕は思いのほかたくましく、心配そうにこちらを覗き込むユリウスは、ミツェルの異能さえなければ虜になってしまいそうなほど魅力的だ。


「お怪我は御座いませんか、お嬢様。」


「え、ええ、私は大丈夫だから、ちょっと離れて頂戴。」


 ミツェルの顔色を伺うユリウスの胸を押しのけ、逃げるように距離を空けた。焦りでバクバクと心臓が高鳴りを告げる。


「熱中症かもしれません。少し日陰でお休みになった方がよろしいかと。あちらに日傘が御座いますのでそちらまでご案内いたします。」


 お礼一つなく逃げ出したミツェルに嫌な顔一つせずユリウスは手を差し出す。助け出された手前強く言い出せないミツェルはおそるおそるその手を取った。






 ユリウスから手渡された白いハンカチで汗を拭ったミツェルは、誘われるがまますぐ近くにある大きな日よけ傘のつけられた椅子まで案内される。一体何をされるのかとビクついたミツェルの前に、近くにあった水をユリウスが差し出した。


「ずっとここに置いてしまっていたのでぬるくなっているかもしれませんが、今はこれで我慢してください。兎に角水分を取ることが重要ですから。」


 ユリウスはそう促して、先程散らばった雑草を集めに日向へと歩いて行ってしまう。手渡された水をまじまじと見ると、これは数時間前にメイドが差し入れた飲み物ではないかと思い当たった。コップに並々と注がれた水には彼が飲んだ形跡がない。

 それに気が付いて硬直するミツェルの元へ雑草を集め終わったユリウスが戻ってきた。


「お嬢様、どうかなさいましたか?やはりどこかご気分でも悪いのですか?」


「いえ、そうじゃなくて。この水って――」


「ああ、妙なものは入っていませんのでご心配なく。それとも毒見をした方がよろしいでしょうか。」


 自分の方が余程辛いだろうに、ユリウスは日陰にも入らずミツェルの前に傅く。演技にしてもやりすぎなその様に、ミツェルは勢いよく首を横に振った。


「そうではないの。これはあなたの水でしょう。メイドが差し入れたと聞いていたわ。」


「もちろん口はつけておりませんよ。お嬢様の御指示が終わっていないのに、休憩を取るわけにはいきませんから。」


 さも当たり前のように殊勝な言動をとるユリウスが怖い。いっそ皮肉であればいいのにと思った。


「水くらい飲んでもよかったのよ。」


「ああ、そうだったんですね。ですがお気遣いなく。お嬢様の体調が何よりですから。」


 そう言われてはどうしようもないミツェルは、おずおずとコップに入っていた水を口に含む。太陽の熱で温められたそれはやっぱりぬるくて、それでも乾いた口にはこの上ない御馳走だった。


 ミツェルが水を飲んだことを確認したユリウスは、「それでは僕はこの辺で失礼したします。どうかご自愛くださいませ。」とだけ言って、すぐに草むしりの戻ろうとしてしまう。


 彼をそのままに置いていくことは、どうしてもミツェルには出来なかった。待って、と小さく呼び止めると、腕で汗を拭っていたユリウスがすぐに振り返る。


 太陽の下では分からなかったが、彼の頬が赤く上気していることにやっと気が付いた。



 あれは既にお前の従者だ。ミツェルの言うことならどんなことでも断れはせん。


 そう言っていたお父様の言葉がフラッシュバックする。ミツェルの勝手な都合で容易に振り回せてしまうくらい、彼の立場は弱いのだとようやくわかった。この場を取り仕切る絶対の権限を持つミツェルがこうも怯えてしまえば、そのしわ寄せはユリウスに降りかかる。


 お嬢様は今後様々な人間とよい関係を構築しなければならないのです。その時に自身の胸中をそのまま晒してはいけません。


 ケヴィン先生はそう言っていた。ならば、伯爵家へ悪意を持つ者ともよい関係を築くのが、ミツェルのやるべきことではないのか。


「少し室内で休みましょう。あなたも倒れてしまっては大変だわ。」


 ユリウスにとってはいらない気遣いかもしれないし、彼をこんな風に追いやった人間が何を、と思うかもしれないが、これ以上悪役令嬢の仮面をかぶり続けることはミツェルの良心が許さなかった。









 自分は平気だと訴えるユリウスの言い分を無視して、とある空き部屋の一室に彼を案内する。近くにいたメイドに冷たい飲み物を持ってくるように言いつけて、空調のよく効いた部屋のソファに彼を腰かけさせた。


 いきなり現れてあれこれ指示するミツェルが分からないとばかりにユリウスが狼狽えた様子を見せるが、ひとまずは大人しく言うことを聞いてくれるようだ。渡された飲み物を一度躊躇ってから飲み干したユリウスの頬から徐々に熱が引いていく。彼の顔色がよくなったことを確認してから、ユリウスに背を向けて扉の前に立った。ミツェルの長い髪がユリウスとの間に隔たる。


「あなたの体調も顧みず、無茶な命令をして悪かったわ。貴方が今仕えているのはそれくらい未熟な主よ。呆れたのなら、どうか男爵の元へ戻って頂戴。デーベル男爵やお父様には私がどうにか話をつけておくし、次の雇先も斡旋いたしましょう。」


 どうか、これ以上こちらに関わろうとしてこないで。ユリウスに背を向けたまま、ミツェルは冷たく言い放つ。


 ここまで冷遇されて、当主代理からこうも言われて、それでもなお引き下がらなければホワイトローズ家に何らかの因縁を持っていることを認めたも同然だ。


 ユリウスが悪人であると確定している以上、これはミツェルなりの最後通告だった。


「お嬢様、僕は何か粗相をしてしまったのですか。」


「いいえ、あなたは何も。」


「では、何か気に入らないことでも御座いましたか。」


「いいえ、あなたはよくやってくれたわ。」


 取り付く島もないミツェルにユリウスが息を呑む。表情は見えないが、さぞや傷ついた顔をしているに違いない。


 だって彼は純朴な青年を演じているから。


 そしてミツェルもこの家を守るために悪辣な令嬢を演じなければならない。それがユリウスと円満な関係を結ぶ唯一の手立てだと思ったから。



「どうしてそんなにも俺を避ける。隠したいことがあるからじゃないのか。」


 ユリウスの声が一段低くなる。彼の仮面の裏を垣間見た気がして、背筋に冷たいものが走った。


 よく効く空調のせいにしてしまいたくて、ミツェルは手早くドアノブに手をかける。しかしミツェルが扉を開けるよりはやく、ユリウスが乱暴に扉を足で蹴って閉ざした。耳元に彼の息遣いがよく聞こえる。


「ミツェルお嬢様、あなたは僕の覚悟を分かっていらっしゃらない。僕がどんな思いでここへ来たかなんて知らないでしょう。」


「あ、当たり前でしょう。貴方が何を考えているかなんて私に分かるわけないわ。」


 すぐ背後で聞こえる彼の声に怯えながら、震える声で言葉を返す。もしかしたら彼の逆鱗に触れてしまったかもしれない。未だミツェルの横を通って扉を抑えるユリウスの長い脚はどく気配すらなかった。


 膠着状態になった二人の間を、ユリウスがさらに詰める。もう抱きしめているような距離感だった。


「ミツェルお嬢様、教えてください。どうしてそんなにも震えているのですか。ぽっと出の従者だというのなら、今すぐ跪いて足でもなんでも舐めましょう。お嬢様のおっしゃること全て叶えて見せましょう。炎天下の草むしりなど、どうということはありません。」


「…もう少し、離れて。」



プルプルと震えたまま縮こまるミツェルにユリウスは呆れたようにため息をつく。


「デーベル男爵と話をつけるとおっしゃっていましたが、無理ですよ。あの家に僕の居場所はありません。ここしか、いられるところがないんです。」


 「だから、どうか。」とミツェルを追い詰めるようにユリウスは言葉を重ねる。彼の声色はミツェルを詰るかのように冷たいのに、紡ぐ言葉は懇願のようだった。再び二人の間に沈黙が落ちる。




ミツェルも、もう限界だった。




「い、いい加減離れて頂戴!あなたの匂いが酷すぎて倒れてしまいそうだわ!」


 眼に涙を貯めて、勢いよく振り返ったミツェルが力いっぱいに彼の胸板を押す。不意を突かれ、片足を上げていたユリウスは、ミツェルの渾身の力に思い切りバランスを崩し床に倒れ込んだ。


 強くしりもちをついたユリウスを可哀想だとは思うが、ミツェルも彼が放つ悪臭に耐えるのが限界だったのだ。これ以上は死んでしまう。


「は、匂い…?」


 床に座ったまま、ユリウスは目を丸くしてミツェルを見上げる。まだミツェルが放った言葉を理解できていないようだ。


「ええ、そうよ!あなたの匂い、鼻が曲がりそうなの!臭くて臭くてもう耐えられない!だから、もう雇えないわ!」


 畳みかけるように言い放つミツェルは既に必死で、自分が何を言っているのかもよく分かっていない。


 先生、真実を混ぜて本音を隠すとはこれで合っていますか。私にはもう何がなんだか分かりません。


 何もかもぶちまけたミツェルはぎゅっと手を握りさらに小さく縮こまる。これから起こる惨状を見ないようにいっそ失神してしまいたい気分だった。


 しかし待てど暮らせどなんのアクションも起こさないユリウスに、ミツェルは徐に目を開けた。未だ床にへたり込んだままのユリウスに目を向ける。


 薄く開けた目の先でミツェルが見たのは、顔を真っ赤に染めて羞恥に身を震わせるユリウスであった。先程までミツェルを鋭く射貫いていた彼の瞳は酷く瞠目しており、大半を腕で隠した彼の顔は耳まで熟れた林檎のよう。


 戸惑い背を壁に寄せるミツェルと、動揺してプルプルと肩を震わせるユリウス。


 逆転してしまった立ち位置に、ミツェルがなんと声をかけたものかと考えていると、こちらが何を言うよりもはやくユリウスがすっと立ち上がる。伏せられた顔から彼の表情は伺えない。


「そうとは気づかず、大変申し訳ありませんでした。すぐに全身洗って参ります。今日はお休みを貰います。」


 それだけ小声で呟いて、ミツェルの制止も聞かずにユリウスは部屋の外へ駆け出して行ってしまう。そのあまりの素速さにミツェルはただ茫然するのみで反応出来ない。不思議と彼の残り香からは不快な匂いがしなかった。










結局ユリウスを首にすることはなんやかんやで流されてしまった。あの場から逃げ出した彼のその後は知らない。もう見張りをつける気力さえ起きなかった。ふぅとため息をついたミツェルは、就寝前によく行っているルーミアとのチェスに興じた。


 こつこつとテンポよく動かされていく駒を見ながら、ミツェルは口を開いた。


「ねえ、ルーミア。私が優れている点って一体なんだと思う?」


 どうしてユリウスがここまでミツェルに執着するのかどうしても理解出来なくて、ついルーミアに漏らしてしまう。最前線のポーンを動かしながらルーミアはそれに答えた。


「やはり人の本質を見分ける力でしょうか。前にも言いましたがお嬢様の審美眼は確かなものです。」


「でも私ユリウスのこと何にも分からないのよ。結局あの後見つかってしまったのだけれど、彼の真意は分からないままだったわ。」


 あれだけの悪意を持っていながら、どうしてミツェルに優しくするのだろうか。何故あれほど従順に振舞おうとするのかが理解できない。


「どうしてそんなにも俺を避ける。隠したいことがあるからじゃないのか。」


 その言葉だけが妙に頭に引っかかった。もしかしたらユリウスは才色兼備なミツェルの絡繰りに気が付いているのかもしれない。


「そんな危ない橋を渡っていらしたのですか。もう、さっさと首にしてしまえばよいのです。」


「だから言っているでしょう、お父様の許可なくそれは出来ないわ。彼もここを辞めるつもりはなさそうだし。」


 クイーンを敵陣の内部まで侵入させながら、ミツェルは諦めたように肩を竦めた。口を回しながらの方が頭がよく回る。もう少しでゲームが終わりそうだと感覚で分かった。


「ねえ、他にはないの?心にもないお世辞はいらないわ。」


「うーん、そうですねぇ…」


 お互いに独り言のような会話を挟みながら、淡々と盤上の戦況が変化していく。


「でしたら、相応しいものを相応しい場所で活躍させるその采配でしょう。まさにこのチェスのように。」


 ミツェルのチェックメイトで幕を閉じた戦場に、「参りました。」とルーミアは潔く負けを認めた。


 采配。その言葉を受けたミツェルは、戦場で王の首を取ったクイーンの駒に目をやる。チェスにおいてクイーンは誰よりも強く重要な駒だ。縦横無尽に盤面をかけるクイーンは、無類の強さを誇るのにも関わらず、自分の事など顧みずひたすらに王の首を狙い続ける。


 ミツェルは徐にクイーン駒を自分の目の前へ掲げた。




 私に采配の才があるのなら、ミツェルが今相応しい活躍の場は―――


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