沙漠の海

江東うゆう

沙漠の海

 夏になるとは、思わなかった。

 絵筆を置いて一作上がると、いつも自分は画家にはなり得ないという寂寥感せきりょうかんさいなまれる。絵は不出来に完結していて、もう私のものではない。

 絵に対する満足感を失ったのは、いつだろう。美大入試に落ちた頃、私にはまだ絵を思う自由が残っていた。けれども、各会の公募を目指すようになってから、私は不細工な批評家に成り変わってしまったように感じる。

 残ったにかわを捨てて、絵皿を真新しい流しに積み重ねると、東の窓を開けた。外には灰色の海が台風の準備をしていた。マグカップにコーヒーをブラックでれてカーテンを引くと、雲も居場所を失った子どもの色だった。空気がかったるい。


「気圧計を買っておけば良かった」


 私は降下する気持ちを嘲笑ちょうしょうぬぐい去りたかった。


 新しい部屋に移ったのは、初夏の暑さが緩やかな頃だった。荷物を片づけて、五十号のパネルを二枚買い、白い壁に立て掛けた。

 私は海辺の山を描こうと、スケッチに出かけた。

 スケッチブックは山の緑ではなく、海の青で埋め尽くされた。

 何故、山を目指して海ばかりになるのか、わからない。ただ、私の不細工が言っている。


――素人では、海は絵にならない。

 

 私の中は海ばかりだ。部屋だって海が見えなければ引っ越したりしない。

 胸に潜む海は青かった。夜の藍色あいいろで、実際、窓から見るより暗い色の海。生物を溶かす海。


 寝入る前に、よく海の幻影を見た。波はなだらかできらきらと青い。音は硬質で、水の音というよりも鉱物がこすれ合う音に似ている。砂の様に細かな鉱物。


 そのうち私の呼吸は緩くなる。胸が圧迫を覚える。


 夢の中では、砂漠に似た海が広がっている。幼少の頃遊んだ広場の緑はなく、砂浜には水晶型の砂粒が大気を反映して横たわっている。私は海に入る勇気を持てない。留まる不安にも耐えられない。一歩先には足場もおぼつかない不透明な光の青が、私を飲み込もうとしている。不安定な未来が砂漠の海となって、ひたひたと押し寄せる。爪先は、もう、海に沈んでいこうと、私に瞼を閉じる諦めを、促し始める……。


 彼と出会った時、私は青の記憶に埋もれかけていた。


「睡眠らしく眠れよ」


 笑われて、目を開けるとベッド脇の窓が枠ごと壊されていた。


「小さすぎるんだよ」


 海風にあおられた彼は、体中が柔らかい毛で覆われていた。そして何一つ、着てはいなかった。


「何だ、死んでしまったのかと思った」


 彼は私を後ろから抱きしめると言った。私は慌ててしゃっくりを一つした。


「誰」


 尋ねると、彼は私の背で力を込めた。骨がみしりと鳴った。


「『僕』という生き物だよ」


 それから、私と「僕」は、少し笑い合った。


「僕」は夜になるとやって来た。ふさふさした体が心地良かった。

 昼間は海に沈んでいる、と「僕」は言った。


「海は良いところなんだぜ」


 「僕」の声は海底みたいなバリトンだった。体からは磯の香りが伝わってくる。


「沈む気があれば海なんて怖くない。海は必ず浮かび上がらせてくれるから」


 そう言われても、私は、沈むのは嫌だ。現実問題、人は海の中で生きられないし、芸術面でも沈みたくない。だって、どれだけ描いても海は怖いし、信用できない。海からきた「僕」のことだって、LikeかLoveかもわからない。自分が「僕」を本当に信じて、のめり込めるかも。

 だいたい、愛することなんて、正気でいられるだろうか。

 私は「僕」が嫌いじゃない。会うと嬉しくて、「僕」が訪れない日が続くと心配になる。それは本当だけど、ずっとこの出会いと別れを繰り返していくことはできるのだろうか。

「僕」が、直したばかりの窓を滅茶苦茶に破壊して出ていくと、私は必ず一つ、言い忘れたことがあって、外を眺めたまま、今度でいいと考える。

 今度がなかったら、と考えてみる。

 辛いけれど、今はまだ我慢ができる。もし、こらえきれなくなって「僕」を追いかける時がきたら、私は危険地帯に踏み込んで、もう会わないさよならへと傾斜していくのだろう。


 次の晩、外は満月だった。

 「僕」が窓から帰る頃も、夜は海の青だった。窓を塞ぐ背中は、体毛に光を浴びて青い霞に覆われていた。

 あの青を、描こう。

 私はもう一度、絵に色を足した。悲しいような青だった。山になりそこねた海は、波が消され、砂浜が沈み、砂漠をかもし出し始めた。

 重ねる青は、「僕」に会うたび増えていった。

 七回目の青を塗った時、私は泣いていた。青に心の半分を持って行かれてしまっていた。生まれてからこの方、他人の褒め言葉や表彰状や、成績なんてものから得た自信が、すっかりなくなってしまった。そんなものは全部、「僕」に委ねてしまっていた。もし、「僕」がいなくなったら。


――もう、全部、さよならに傾いたっていいじゃないか。


どうせ、「僕」なしでは絵一つ描けない。青はすべて「僕」の青なのだから。

そんな空っぽな自分を、どうやって抱えて行けばいいのか、もうわからない。


 私は「僕」に内緒で、窓の改修を頼むことにした。もっと、もっと大きな窓に。「僕」の出入りしやすい窓に。そして、夜はずっと、開けておこう。


 半月の晩、「僕」は私を抱きしめたまま、絵を眺めていた。


「随分良い青だなあ。沈みたくなる青だ」


 私が、あれは君だから、と言うと、「僕」は私の頭に顎を乗せた。


「いいや、君の大好きな青だ。誰にも動かせない君の青」


 全身を「僕」に包み込まれて、ふんわりしていた。「僕」の声も体も気持ちよくて、私はいつの間にか夢に沈んでいた。


 夢の中は、真っ青だった。一面の砂漠の海へ、私も「僕」もどんどん分け入っていく。「さよなら」と「僕」が言った。そんなことを彼から言うのは初めてだった。私は立ち尽くした。海の中まで追って行きたかった。でも、追えなかった。「僕」は海の中で振り返って笑い、うなずいた。


 窓が新しくなった夕方、青い砂漠はようやく描き上がった。百号の画面には群青や藍の細かい粒子が混ざり合って、物憂ものうげな夏を作っていた。もう、私を消去する海ではなかった。いくらかの私を消してしまった青だった。

 見上げると、空には秋が濃い。

 私は、随分昔に忘れた自信がいてくるのを感じた。今晩は窓の外に、「僕」を追いかけようと思った。

 しかし、「僕」は二度と入ってこなかった。


        〈おわり〉

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沙漠の海 江東うゆう @etou-uyu

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