これから戦争を描こうとする人へ……

本作は、短い評の中で、「観念的な意味」での「戦争」と「個人性」を帯びた「ナマの戦争」とを対比しつつ、多くの事実を捨象して成立する「戦争」も「ナマの戦争」を記述することも戦争の本質を描き尽くし得ないと喝破する。

一旦、筆者と反対側から語ろう。
これまでルポルタージュや論文という形でオーラルヒストリー等をもとにした「ナマの戦争」の厚い記述が積み上げられてきた。これらは確かに「戦争」を相対化してきた。また「戦争」についての議論は、さまざまな角度から「戦争を避ける」「戦災から復興する」ために積み重ねられてきた。

翻って、著者の言葉に寄り添ってみよう。
その生真面目な仕事の隆盛の一方で「ナマの戦争」の言葉をセンセーショナルなものとして戦争で苦しむ人たちを消費する読みがあることも事実である。また、「戦争」の言葉から人間を数としてしかとらえない読みがあることも事実である。

これは<戦争>という否応なく私たちの個人の生を飲み込みつつ、社会全体を巻き込む出来事を描くことの難しさの話だ。

「戦争」も「ナマの戦争」も両者を併記した記述も、どの記述も読み手に委ねられてしまう。もっと言えば、筆者が冒頭に指摘するように、「読み手の精神」は変化させられるのである。ならば、読みは社会意識の側に委ねられてしまうのである。その社会が正常であるという保証はない。

本論は、戦争について書くということ、作品の描こうとする事柄の強度を保つこと、その難しさを指摘している。「戦争」を描くか、「ナマの戦争」を描くか、いずれでもこの困難を乗り越えがたいという。

ならば、私たちは新しい戦争の描き方を考えなければならない。