今日における戦争と文学

MITA

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 影響の大きさに差はあれど、その時代における象徴的なできごとは読み手の精神を変化させることによって創作の読みにも影響を及ぼす。だからロシアによるウクライナ侵攻によってその種の変化が起きることは、ある意味では容易に予想できたことであった。戦争というできごとはいまや私たちのすぐ近くにまで接近しているように思え、そしてそれは私たちの精神を否応なく変化させている。


 では今日、小説の読み手は戦争に対してどのような精神を持ち、あるいは現実の戦争からどのような影響を受けているのであろうか。このことを考えるにあたっては、私たちはまずおのれの精神に注目するより先に、旧来きゅうらい語られてきた戦争という観念の性質に着目しなければならない。


 もちろん他の多くの観念がそうであるように、戦争という観念もまた多くの具体的事例を包摂ほうせつしている。その証拠に、私たちは戦争という語を幼いときから耳にしてきたはずである。 "戦争反対" や "正義の戦争" など、政治的スローガンのなかで用いられる「戦争」や、 "太平洋戦争" や "第四次中東戦争" など、歴史的事実を説明するときに用いられる「戦争」、あるいは ”交通戦争” や ”ゲーム機戦争” など、戦争の競争的な面をことさらに強調するため比喩ひゆとして用いられる「戦争」などがそれである。しかしこれらはすべて、私たちの現実の生活とは距離がある、観念的な意味での「戦争」である。


 もちろん私たちは、観念的な意味での「戦争」のみが戦争の全部を表現していると考えているわけではないだろう。とはいえ、戦争ということばが一般に用いられる時、これらの用法から外れた戦争の別の側面は常に捨象しゃしょうされてきた。そしてそれは国防にかかわる政策論議がかわされるときですらそうであった。しかしそれを紋切り型に、人間性を欠いた近代理性主義の産物として見るのは失当である。


 では、なぜいち観念にすぎないはずの「戦争」が、近代の市民社会でその価値を認められてきたのだろうか。このことを理解するため、私たちはさらにロマン主義以降の文学運動においてつねに問題になってきた、文体の死という現象を理解する必要があろう。その問題の中核は、現代において今や文体というものが存在しえるかということであった。文体という言葉は英語でスタイルというが、ここでスタイルとは人の生き方のことを指す。文体の死とは、ある人の人生が今やどのような束縛も受けず、自ら選択した結果でしかないという近代特有の時代意識の上に生まれた考え方である。これは近代人の自意識に大きな――『エウテュプロン』的な――問題を投げかけた。なぜある人の生はであって、ではありえないのだろうか?


 ここでは、社会を横断する特定の問題に対して共通の合意を見出すことはもはや期待できない。個人のもつ価値観の自由が認められた社会では、すべての価値観は本質的に正当である。それゆえに、ある問題に対するどのような意見も、明日にはまったく別のものに揺れ動いてしまうかもしれない。近代においては、かつてヴォルムス帝国議会に召喚されたルターが「私の場所はここにしかない」といってプロテスタンティズムを擁護したような、おのれの生き方に対する確固たる信仰心は期待できないのである。


 だとすれば、読み手と書き手の間に精神的な紐帯をもち、社会全体の結束を維持し、人々を団結させるためには、個別具体的な現実を語ることは害悪であるまいか。誠実に話をしていたのでは、もはや読み手と書き手とを、市民と社会とをつながらせることなどできない。近代文学に起こったこの種の混乱と同じことが、戦争ということがらに対しても起こったのである。この結果、戦後長い時間を経てどこかつかみどころのない『』――観念としての「戦争」――が必要とされたのだった。


 だからこそ2.24が訪れた時、その歴史的できごとが私たちの精神に与えた直感的かつ感情的な衝撃は、旧来の戦争観を根底から吹き飛ばすのに十分なものであったといえよう。私たちが頭の中で行っていた「戦争」は、そこで何万人という人間が死傷し、何千両という戦車が破壊され、何十隻という艦船が撃沈され、何百機という航空機が撃墜されることを冷徹に計算してはいたが、一方でそれらの計算は、私たちがテレビやSNSを通じて目にした、倒壊して土煙がたつアパルトメントや、戦車砲の直撃を受けたセダン、頭から血を流す顔面蒼白な赤ん坊、軍によって強制的に徴兵される民間人、あるいは自爆ドローンが最後に写した兵士ほどにはではなかった。


 ウクライナでの戦争がそれまでの戦争と違ったのは、それらがナマの戦争として私たちに戦争の否応ならざる個人性を示し、また明日にも私たちの身近な場所で起こりうるのだと示した点にある。そのためにかつてあれだけ議論された「戦争」は、今度はそれが真面目に語られれば語られるほど滑稽こっけいなものとなり、あるいは虚勢をはった偽りに聞こえるものとなってしまった。それが現実であれ創作上のことであれ、2.24というできごとは社会全体に共有される大きな物語としての「戦争」を色褪せたものにしてしまったのである。


 しかし戦争が始まって2年が経ち、小説にもナマの戦争を踏まえたリアリティとセンセーショナリズムが求められている現在、私はそのような読み手の欲求に作り手が応えようとすることはよいことではなく、むしろ悪いことだと考えている。なぜなら、たしかにハリボテの「戦争」論に対してナマの戦争は一見辛辣な反駁はんばくとなるように見えるけれども、一方でナマの戦争それ自体を目的として描かれたものはその辛辣さに甚だ好気分に浮かれて溺れていて、危険である割には問題の本質を全く付いていないからである。


 ナマの戦争とは結局のところ、私たちの精神の奥底から理屈抜きの強烈な心理的拒絶と衝動を引き起こすことによって観念としての「戦争」の嘘を暴いたのであって、それ以上の何かをもたらしてくれるものではない。私たちは戦争において死ぬ兵士の存在を知っていても、兵士が具体的にどのように死ぬのか、あるいは戦闘で死ぬことができずに生き続け、戦後の社会全体にとって彼がどのような負債となるのかといったことを考えることはできない。創作でさまざまに描かれる戦争のオーラル・ヒストリーは「戦争」の遠景にすぎないのであって、実際に感じることができる痛みにはならない。個別具体的なナマの戦争の痛みを、平和な社会に生きる私たちが共有することは決してできないのである。


 だからこそそれ自体にことさらな価値を見出すことは、社会に生きる私たちひとりひとりの心を引き裂き、かえって魂を孤独に導くことにしかならない。それは近代ロマン主義が引き起こした混乱への回帰という点で単なる車輪の再発明にすぎないのであって、作家は原始的で反射的な心理を喚起しようとするあまり、この手の罠に落ち込むべきではないのである。


 こうやって考えてみると、結局のところ両者の極北にあるものは似通っていることがわかる。戦争をカギカッコつきの「戦争」だけで考えることが無意味ナンセンスであるように、ナマの現実をどれだけ突き詰めても無意味ナンセンスなものにしかならない。今日こんにち、良識的な作家がみずからの小説とテーマとしての戦争との間に適切な距離を保とうとするなら、まずこのこと――創作の不可能性――を抑えておかなければならないのだろう。

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