夜の居酒屋で管を巻くアイドルの話

藤之恵多

第1話

『トリあえず、トリから好きになってね!トリが目印、トリちゃんです!』


 画面から響いてきた声に飛鳥は顔を上げた。

 結城飛鳥、三十二歳。

 現役最高齢アイドルと称される女が、元気いっぱいにアイドルらしい自己紹介をしていた。

 飛鳥はハイボールを煽って、カウンターにグラスを置いた。

 カウンター越しに眉を下げた店長の姿が見えた。


「なぁにが、トリあえず、トリからよ!」


 ハイボールの炭酸が喉の奥を通り過ぎていく。

 居酒屋にしては落ち着いた店内は個室が中心で、カウンターに座っているのは飛鳥だけ。

 といっても飛鳥がいる時は、いつもカウンターは貸し切り状態なので、店長の理沙が気を利かせてくれているのかもしれない。


「私の名前は飛鳥だっての」

「まぁまぁ、あだ名はトリちゃんなんだしさ」


 管を巻くように話す頬の赤い女に対して、理沙の対応は慣れたものだった。

 お酒を入れるコップをキュッキュと白い布で磨いている。

 そりゃそうだ。週に1回はこうやって愚痴を聞いてもらっている。


「理沙はいいじゃない!」


 飛鳥はカウンター越しに理沙を見上げた。

 困ったように笑う顔が色っぽい。

 彼女の現役時代を彷彿とさせる。いや、下手したら今の方が綺麗かもしれない。


「リリとか、りささとか……アイドルっぽい名前がいっぱいで」

「わたしはもうアイドルじゃないもの」


 飛鳥の言葉に理沙はそう答えるだけだった。

 蒸気を吹き出し始めた鍋の蓋を理沙が少しずらす。

 美味しそうな匂いが漂ってきた。

 飛鳥は人差し指を立てて顔の横で振ってみせる。


「それよ、それ。同期で一番人気の理沙が最初に辞めて」

「あはは」


 ビシリと人差し指を向けた。

 理沙は笑って料理を取り分けている。

 目の前に差し出され、飛鳥は恭しく受け取った。


「結局一番なんて取れなかった私が三十路でもアイドル続けてるよの!」


 理沙が辞める前はもちろん、いなくなってからも人気投票で1位になれたことはない。

 入ってすぐにトップアイドルの階段を駆け上り、1位を取ってスパリと辞めた理沙とは対称的すぎる。

 ハイボールを一口、二口。炭酸に喉を鳴らした。


「飛鳥は頑張ってるよ」

「っ〜〜!」


 ふわりとハイボールのグラスを取られ、まるで子供にするように頭を撫でられる。

 年下のくせにこの包容力。

 飛鳥はアルコール以外の理由で顔を赤くした。


「可愛くて優しい……その上、料理もできるなんて、完全に負けてるじゃない」


 カウンターに突っ伏して、ほっぺを机につけた。

 壁に貼られたメニュー表。

 綺麗に磨かれたカウンター。

 困ったようにこちらを見守る理沙。

 全部、心地いい。

 ゴロゴロとごねていると理沙はまたハイボールのグラスを渡してくれた。


「飛鳥のアイドル好きには負けるよ」


 返す言葉がなかった。

 ハイボールと一緒に浮かんできた思考を沈める。


「アイドルが好きで、歌が好きだから、まだ辞めないんでしょ?」


 そう。アイドルが好きで、歌が好きだから、まだ辞めない。辞めれなかった。

 だけど、それだけで続けられる時期はもう終わりに来ている。

 体を起こし、少しだけ姿勢を整える。流石にあの体勢で口にできなかった。


「……そろそろ、辞めないかって、言われ始めてさ」

「あら、まぁ」


 理沙が目を丸くした。

 驚いているのか。年齢を考えれば、言われて当然だろうに。

 すぐに心配そうに眉を下げた理沙が聞いてくる。

 飛鳥は小皿で出された料理を一口食べた。


「どうしたいの?」

「アイドルは好きだけど、体力的に辛い部分は増えてるよのね」


 レッスン、収録、握手会、イベント。

 アイドルには仕事が山ほどある。それに。

 飛鳥はふぅーと息を吐いたあと、額に組んだ手を当て顔を支えた。


「あと、いい加減、スキャンダルに気をつけるのもキツイし」

「スキャンダルが無いアイドルで偉いじゃない」

「モテないだけよ!」


 理沙の慰めも慰めにならない。

 人気があれば気がないところにも煙を立てるのが、芸能界だ。

 キャリアに傷がつかないように、周りに迷惑をかけないように、人一倍注意してきたが、流石にそろそろ人生を謳歌したい。


「そんなことないと思うけどー?」


 菜箸で料理を転がしながら、理沙が首を捻った。

 火のないところに煙を立たせられていた人間がよく言う。

 もっとも、理沙のスキャンダルはすべて話題作りで、そういう手段を彼女が嫌っていたのも知っている。

 アイドルのセカンドキャリア。

 飛鳥は酔いのままに口に出す。


「舞台とかミュージカルも面白そうだけど……結局、全部中途半端なのよ」


 歌うのが好きだ。

 舞台の上に立つのも好き。

 人を楽しませるのも好き。

 だけどアイドルという枠がなくなった結城飛鳥にその需要があるだろうか。


「どうしよう」


 結局のところ、勇気がない。

 自己紹介でさえ、とりあえず、なんて使ってしまうくらいなのだ。


「どうしたらいいかなぁ、理沙ぁ」


 興奮したからか、ハイボールが回ったからか、呂律が怪しくなってきた。

 飛鳥は、再び机の上に突っ伏す。

 理沙がカウンター越しに何かを置いた音がした。


「とりあえず飲み過ぎだから。お水ね」

「んー……ぁりがと」


 優しい声と雰囲気に気が緩む。

 ここでくらいしか愚痴なんて言えない。

 まるで睡魔に呼び込まれるように飛鳥の意識は飛んでいった。


「寝ちゃった」


 動きを止め、穏やかな寝息を響かせるアイドルに理沙は苦笑した。

 用意してある毛布を持ってカウンターから出る。

 そっと飛鳥の肩にかけ、そのまま隣に座る。

 可愛らしい寝顔は現役時代と変わっていないが、重ねた年齢は見え隠れする。

 それはきっとお互いさまだ。


「アイドルが居酒屋で飲み潰れるとか、ダメだよー?」


 飛鳥の頬を指でつつく。

 元アイドルとしてのアドバイスだ。

 寝ている飛鳥には聞こえないだろうけど。

 同期の店だから、気が緩んているんだろう。


「わたしは一緒に働いてもいいんだよ?」


 顔を寄せて、頬にキスを落とす。

 いつになったら気づくのか。

 理沙は少しだけワクワクしていた。

 トリあえず、なんて言わない。

 トリちゃんが良いのだから。

 理沙はそっと微笑んだ。その笑顔はアイドル時代のものより深い色に満ちていた。

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