2.「何も悪くないから」
その瞬間は僕もその場に居合わせたのでよく覚えている。
学級旗製作は前々日から行われていて、あいにく用事があった僕はその日が初めての参加だった。頼まれた金のペンキを買って戻ってくると、ちょうど別の店に行っていた村瀬と昇降口で鉢合わせた。村瀬が学校指定のジャージを着ているのが珍しかったのではっきりと記憶している。でも体育祭準備のためにジャージでうろつくこと自体は珍しくない。体育の授業は男女別だし、村瀬も僕も弓道部なのでジャージ姿が新鮮だっただけだ。
教室には勅使河原、そして五、六人のクラスメイトがいたはずだ。僕たちは教室に並んだ机や椅子を前の方に移動させ、村瀬は空いた後ろのスペースに学級旗を広げていた。もう少しで完成すると聞いていたので、僕らは吞気に話していた。
そのとき急に高い叫び声が上がった。むせ返るような溶剤の匂いの中、村瀬が白いペンキまみれで学級旗の上に倒れていた。慌てて助け起こすと、村瀬は「大丈夫」と慌てたように僕の制服を指さした。気づかないうちにシャツやスラックスのあちこちにペンキがついている。全身がペンキまみれになることもいとわず、どろりとしたペンキを吐き出す缶を起こすも、すでに時遅し。ほぼ一缶全部こぼれたらしい。
「足が引っかかっちゃって、それで」
村瀬は泣きそうな声でつぶやいた。僕がなぐさめようとすると、後ろから声が上がる。
「何てことしてくれたの」
勅使河原の視線の先にあるのは無残な姿に成り果てた学級旗だ。怒りに震える低い声は、その場にいた者がすくみあがるには十分だった。
「わたしのやること成すこと全部に反対して、挙句の果てにみんなの思いのこもった学級旗までめちゃくちゃにして。どこまでわたしのことを馬鹿にすれば気が済むの!」
拳を握りしめた勅使河原はペンキまみれの村瀬の腕を掴んで立たせる。手や制服のスカートにペンキがつくのも気にせず、吠えるように責め立てた。村瀬はうつむいたまま答える。
「紗希ちゃんのこと、馬鹿になんかしてないよ」
「してるでしょ! わたしはいつも!」
殴りかかってもおかしくないほど取り乱した勅使河原の前で、村瀬は唇を噛みしめたまま一歩も動こうとしなかった。村瀬を守るように二人の間に入ろうとすると、廊下の窓から翔平が顔をのぞかせた。
「大丈夫か? すごい怒声が外まで漏れてるけど」
人懐っこい翔平の顔に、早鐘を打っていた心臓が落ち着いていく。それと同時につのっていく不甲斐なさを噛みしめながら、顔を真っ赤にした勅使河原が駆けていくのを呆然と見送るより他なかった。
教室に残された僕らは顔を見合わせた。
「二組の見苦しいところ、見せちゃったな」
僕が苦笑すると、翔平は真剣な表情で勅使河原の消えていった方向を見つめていた。
「俺、何があったか知らないけど、紗希のこと追いかけるわ」
あまりにも自然に名前で呼ぶものだから、僕は啞然として翔平の顔を見た。
「あんなやつだけど、紗希も大事な仲間なんだわ」
僕の困惑を感じたのか、翔平は「
「強引なところあるし仲良くしてやってくれとは言わないけど、必死で頑張ってるってことだけはわかってやってくれ」
「知ってるよ」
僕が苦い気持ちで答えると、翔平は嬉しそうにうなずいた。ズボンからスマートフォンを取り出して耳に当て、ゆっくりと暗い階段の方へ消えていく。
僕が少し迷ってから教室に戻ると、村瀬が他のクラスメイトに頭を下げていた。
「ごめんなさい。わたしの不注意で何もかも台無しにしてしまって」
「仕方ないって。村瀬さんが気にすることじゃないよ」
「勅使河原もあんまりだよな。そこまで熱くなられても困るっていうかさ」
揃いも揃って村瀬をなだめているのを見ると、無性に腹が立って仕方なかった。やめておくべきだと頭では理解していたけど、抑えることはできなかった。
「本人のいないところでぐだぐだ言うの、やめない」
鼻白む連中を笑顔で黙らせる。僕は勅使河原に腹が立っていた。勅使河原をかばう翔平に。勅使河原のいないところで文句を言うクラスメイトに。そして誰より、何でも他人任せで自信が持てない自分自身に。
やってしまったという後悔とともに村瀬を見ると、村瀬は泣き出しそうな顔で笑っていた。
「ありがとう。でも本当に、紗希ちゃんは何も悪くないから」
◇◆◇
一心不乱にハケを動かしていたためか、声をかけられるまで翔平が隣に立っていたことに気がつかなかった。
「おー、なんとか完成しそうじゃん」
僕は筆先から視線を外すことなく「まあね」と短く答える。勅使河原の件もそうだけど、翔平は面倒見が良い。隣のクラスの翔平は本来関係ないはずの僕らのクラスのことも気にかけてくれていたらしい。
作りかけの学級旗はほとんど全面にペンキがかかってしまったため、一から作り直すことになった。一昨日、教室を出て行った勅使河原が帰ってきたのは一時間ほどしてからだったけど、僕が布を切り、村瀬がミシンを使って旗に仕立て上げ、美術部員が下絵を描き始めているのを見て、彼女もそれ以上何も言わなかった。そしてやはり勅使河原は有能なマネージャーなのだろう。辣腕を振るった彼女のおかげで完成は近い。
でも、昨日も今日も村瀬は学校を休んでいる。
「しょ、翔平! なんであんたがここにいるの」
ちょうど買い出しから戻ってきた勅使河原は、リュックサックを背負った翔平の姿を認めると慌てふためいた。
「隣のクラスのスパイは帰ってよ。っていうか、こんなところで油売ってないで自分のクラスの作業を手伝いなさいよ」
そう口では言っているものの、勅使河原からは感情があふれ出ている。少し赤く染まった顔に、いつもより早口でやや高い声。僕は村瀬に対する翔平の気持ちを直接聞いたことはないけど、いつも親友の様子を見ていればそれくらいわかる。そして勅使河原が翔平を見るまなざしは、翔平が村瀬を見るそれと同じものだ。
「残念ながら、追い出されちまった。足がこれなんで。ひでえよな」
「だからって邪魔しに来ないでよ。早く治しなね」
けらけらと笑い合う二人の間には、同じ部活仲間特有の戦友めいた信頼感が漂っている。ひいき目に見ても美男美女だし、お似合いの二人だという下卑た噂も幾度となく流れている。そのたびに勅使河原は一刀両断していたし、翔平も話に乗るふりをしながらもやんわりと否定していた。翔平が一年の頃から村瀬に惹かれているのは気がついていたし、部内恋愛禁止の掟を守る勅使河原も真面目なのだろうと思う。
部活仲間としてじゃれ合う二人の会話に耳を傾けながら、僕は目の前の学級旗に向かっていた。鳳凰の細かい羽根の部分に金色を入れていく。黒地の布に金が映える。輝く金の横で黒は一層暗く見える。翔平と勅使河原の横で、息を潜めるように過ごす僕の影は暗い。
「そういえばさ、これ渡すの忘れてた」
勅使河原の声に僕はひそやかに顔を上げ、視線だけを横に向けた。勅使河原は背負っていたリュックサックのファスナーを開くと、中から取り出した何かを翔平に手渡す。
「これ夏の大会のお守りじゃん。ありがとう」
「何なくしてんのよ、この人でなし」
辛辣な勅使河原の言葉に、翔平はぺこぺことしながらそれを大事そうに受け取った。翔平のリュックサックにもフェルト製のお守りが束になってぶらさがっている。大会のたびにマネージャーが作ることが多いと聞くし、実際勅使河原も教室で作業していることもある。背番号や名前が入っていることが多いから、翔平のものだとすぐに判別がついたのだろう。もっとも、勅使河原の翔平に向けた特別な感情に由来しているのかもしれないけど。
「いや、失くしたことにはすぐに気がついたんだって。ひもが切れてたし、ほら。でもそんなこと正直に言えるわけないし。本当にごめん、どこにあった」
顔の前で拝むように手を合わせる翔平に、勅使河原はふふっと笑う。
「教室よ。ここの」
「二組の?」
「そう、あんたね、ふらふら遊びに来すぎなのよ。だからばちが当たったのよ、きっと」
軽い口調で放たれたその言葉に、含みを感じたのは勘ぐりすぎだろうか。いや、そんなことはないと思う。
いつも翔平のことを見ていた勅使河原ならきっと知っているはずだ。翔平は村瀬のことを好いていると。翔平が僕に用があるというのは建前で、村瀬に会うためにちょくちょく二組の教室に来ているのだと。
だから村瀬に対してライバル意識があるのだろう。そしておそらく、村瀬もそのことに気がついている。
十六、七歳の僕らは、自分の気持ちや相手の気持ちに気がつかないほど子どもじゃないし、知っているからといって完全に気にしないほど大人じゃない。知りたくなかった相手の気持ちを知って落ちこみもするし、自分の醜い感情に嫌気もさす。
再び学級旗に向かおうとしたけど、いろんな考えが頭をよぎって作業に全く集中できない。僕は大きく息を吐き出して筆を新聞紙の上に置いた。そして立ち上がって翔平たちのもとへ歩み寄る。
「勅使河原、ちょっといいかな」
勅使河原は翔平との会話を邪魔されたというのに嫌な顔一つしなかった。職務に真面目で、熱心で、だからこそ翔平の信頼を得ているというのに、部活を引退するまで決してそうはならない関係。強いな、と思う。
勅使河原から離れて別の男子と話し始めた翔平を見ながら僕は尋ねる。
「あのお守りを拾ったのはいつ?」
きっと勅使河原は、僕からの質問が学級旗に関することだと思っていたのだろう。だますつもりはなかったけど、結果的にそうなったのは申し訳ない。勅使河原はいきなりの質問に明らかに困惑していたけど教えてくれた。
「たしか、三日の朝だったと思う。なんでそんなこと聞くの」
僕はそれに答えることなく、曖昧に笑いながら唾を飲みこんだ。
「二つ。翔平が怪我をしたのはいつ」
勅使河原は不信感を隠そうともしなかったけど、迷うこともなくすぐに答えた。
「三日の朝練。翔平にしては珍しく、派手に接触した」
「それまでは普通に走っていた、と」
勅使河原は力強くうなずく。さすがは敏腕マネージャーだ。選手のコンディションはしっかり把握しているらしい。
「あと一つだけ。村瀬はどうして休んでいると思う」
勅使河原は勢いよく顔を上げると、足元に視線を落とした。
「そんなこと知らない。体調が悪いんじゃない。でも、悪かったとは思ってる」
僕は礼を言って静かに教室を出る。イベント前の浮き足立った空気は廊下にも流れている。準備が間に合っていないのは僕たちのクラスだけじゃない。隣の一組は廊下にも新聞紙を引いてのこぎりで木材を切っている。翔平がまだ二組の教室にいることを確認してからそっとその場を離れる。ここはうるさすぎるし、後ろ暗い僕には明るすぎる。
屋根のない渡り廊下にも他の生徒はいたものの、声が響くことはないし僕に注意を払う人もいない。秋の香りのする風が髪を揺らすなか、僕はスマートフォンを耳に当てた。
「今少し話せるかな。香澄」
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