シカクカンケイ

藍﨑藍

1.「よろしくね」

 開け放たれた窓の外から風が吹きこみ、クリーム色のカーテンが視界をさえぎる。僕は頬杖をついたまま文庫本から顔を上げた。


 昼休みの教室はいろんな食べ物の混ざった匂いと和やかな喧騒に満ちている。男女問わずそこかしこにグループが自然にできていて、僕がそれを外から眺めているのもいつものことだ。席替えをしてまだ間もないからか、休み時間に誰がどの場所を使うかも定まっておらず、腹の探り合いと譲り合いがあちこちに見える。


 席替えで窓際の席になったのはラッキーだった。高校生活も折り返し。二年の秋ともなれば真面目に授業に取り組むべきだとわかってはいるけど、ふっと息苦しさを感じたときに空を見上げられるのはいい。


 爽やかな秋空は高く、この調子なら明日行われる体育祭も問題ないだろう。僕だって普段大人数でつるむわけではないけど、滅多にないイベントが楽しみではないと言うと嘘になる。気になっていることから目を背けようとしている、というのが正直なところだけど。


 甘い金木犀の香りと土の匂いの濃い空気を吸いこんで息を吐き出す。読みかけの文庫本を閉じて机の上に置いて大きく伸びをしてみる。ちょうどそのとき、教室の入口から見知った顔が入ってきた。


 百八十センチを超える身長。白い長袖シャツごしにもわかるほどの引き締まった体つき。染めてはいないものの、やや茶けた髪。そして男の僕から見てもわかるほどの精悍な顔立ち。

 そういった外見的特徴はあいつを構成する一部分でしかない。何よりも、その存在感が彼を引き立たせている。


 友人の多い彼はいたるところで声をかけられながら、僕に少しずつ近づいてくる。幸か不幸か、僕の周りの席は空席が多い。「なんで木暮こぐれなんかに」と言いたげな同級生の視線に僕はいつもたじろいでしまう。そしてそんな視線を物ともせず、別世界にいる友人――ひいらぎ翔平しょうへいは誰よりも大きな手を挙げてやってきた。「よう、晴也はるや


 翔平は僕の前の席が空いていること、その持ち主が別の場所で話に興じていることを確認すると、壁に体を預けるようにして横向きに腰を下ろす。


 翔平が男女問わず人気があるのは、意外にもこういった細やかな気遣いができるからだろう。僕だって去年同じクラスになるまでは、一生付き合うことのなさそうなやつだと思っていた。明るくクラスでも中心的な、もっとはっきり言ってしまえば違う階層に属するやつだが、どういうわけかクラスが離れた今でも交流が続いている。


 控えめに言って僕の成績は相当上位なので、翔平に頼みこまれて自分のノートを貸すこともある。でもしょうもない話をして手ぶらで帰っていくことの方が圧倒的に多い。


 だから、翔平の異変にはすぐに気がついた。いつもと同じような笑顔を浮かべて気づかれないようにしてはいるものの、ひどく落ちこんでいるらしい。


「それ、どうしたの」


 翔平は長い足を組んでいたが、サポーターを巻いた左足をそっと床に下ろす。その際に特注だという大きいスリッパが脱げて僕の方へ飛んできた。白いペンキが付着したそれを拾おうとすると、翔平の長い腕が伸びてくる。スリッパを履き直した翔平は一瞬顔を悔しそうに歪めてへらりと笑った。


「うーん、まあ捻ったというか」

「そっか」

「まあバスケやってたらよくあることだ」


 すでに多くの部員やクラスメイトに説明をしたのだろう。翔平は水が流れるように自然に続ける。


「秋大会近いのがな、ちょっと厄介だよな。迷惑かかるし申し訳ないと思ってるよ。あと体育祭がなあ。リレーで俺の輝かしい活躍を見せつけてやるつもりだったんだけどなあ。二組、俺が出ないからチャンスだぜ」

「別に僕は一組が勝とうが二組が勝とうが正直言ってどうでもいいよ」


 翔平の周囲には人が集まる。それは彼が周りを安心させるだけの人望があるからだ。今だって、翔平は自分が及ぼす影響のことしか考えていない。僕が心配しているのはあくまでも翔平個人のことで、僕がそれに腹を立てるのは完全に筋違いだけど怒らずにはいられなかった。

 翔平にあたるようにつっけんどんに言ってしまった僕に対し、翔平は一瞬目を見開いてから猫のように目を細めた。


「そう言ってくれるだけでありがたいよ」


 完璧な受け答えに僕が再度口を開こうとすると、翔平は「そういえば」とさえぎった。


「そこの席って誰だっけ」


 話し上手でありながら聞き上手な翔平が他人――少なくとも僕を押しのけてまで話すことは珍しい。さも今思いついたように言っているが、こちらが本題なのだろう。


 僕は翔平が手で示した先、僕の右隣の席に視線をやった。

 なるほどね。


 僕は居心地の悪さを感じながら、何も気がついていないふりをして翔平の茶番に乗ることに決めた。


村瀬むらせだよ。昨日から休んでる」


 翔平は「村瀬さん、休みなのか」と意気消沈したようにつぶやく。


「体調不良らしいよ」

「本当にそうなのか」


 翔平はすがるように僕を見る。


「体調不良と言われると『そうですか』としか言えないけどね」

「本当にそうならいいけど……。いや良くはないか」


 下手に突っ込んでしまうとプライバシーに踏み込むことになる。村瀬を心から心配している翔平もそのことは理解しているのだろう。翔平の大きな体が心なしか小さく見える。

 とはいえ、僕も友人から頼られて嬉しくないわけがないし、クラスメイトの村瀬を心配する気持ちも当然ある。加えて、この件に関しては思うところもあった。


「まあ、少し考えてみるくらいなら許されるかな」


 自分を納得させるようにそうこぼすと、翔平はぱっと目を輝かせた。

 昼休みの教室の中で、異質なほど静かな空間を見つめる。彼女はなぜ学校を休んでいるのだろう。


 村瀬香澄かすみ。彼女は僕の幼なじみにして、翔平の想い人だ。


 ◇◆◇


 午後の授業は眠気が襲ってくる。あくびをかみ殺しながら教師の話をタブレット上にメモして顔を上げると、案の定いくつもの頭がかくかく揺れていた。

 チャイムが鳴ると、揺れていた頭が同時にぴくりと跳ね上がる。空いた席を見ながら思い出す。村瀬が学校を休み始めたのは昨日十月四日からだった。一昨日の三日は村瀬も同じように船を漕いでいた。もし、体調不良以外の原因で村瀬が休んでいるとすれば、その原因は三日以前にあったと考えるのが妥当だろう。


 通常であればホームルームが終わったあとは各々自由に教室から散っていくけど、体育祭前日の今日は違う。どうしても休めない厳しい部活や用事などがない人は、放課後残るように言われていた。それは一昨日も同じだった。


「では何とか準備を終えられるように頑張りましょう」


 僕を含め、教室には十数人ほどが残っていた。人員を的確に振り分け、テキパキと仕切るのは女子体育委員の勅使河原てしがわら紗希さきだ。くっきりとした目鼻立ちにポニーテール。間違いなく美人ではあるけど、気が強いことも相まって僕は少し苦手意識を抱いている。


 体育祭では百メートル走、リレーや騎馬戦といった一般的な種目に加え、クラスパフォーマンスの時間が設けられている。劇やダンス、コントに手品と異種格闘技のような混沌を生み出すことに定評がある時間だけど、当然これにも審査がある。僕たち二年二組は競技優勝だけでなく、パフォーマンス部門の二冠を得ることを目標にしていた。いや、体育委員や一部の生徒の意見で二冠が目標になっていたと言った方が正しいだろう。


 勅使河原の指示で、僕は教室の床に新聞紙を広げた。他のクラスメイトが持ってきてくれた黒い布を受け取ると、それを新聞紙の上に広げて置く。しっかりと重みのあるそれは、パフォーマンスで最重要と言っても過言ではない学級旗だ。真っ黒な布の中央に金の鳳凰が羽ばたき、クラス名が旧字体で描かれるデザインのはずだったが、まだほとんどできていない。


 基本的に何をしてもよいパフォーマンスでも旗だけは規格が決まっている。予め色を伝えておき、生徒会から各クラスに布が支給されことになっている。おそらく大量に買った方が安くなるとか、そういう事情があるのだろう。


 つま先に当たって転がったペンキ缶は、あの日に僕が買ってきたものだ。蓋の閉まったそれを拾い上げ、隣にいる勅使河原を横目で見る。


「こんなにギリギリになるはずじゃなかったんだけど。残ってくれてありがとう。よろしくね、木暮君」


 冷たい目で学級旗を見下ろしていた勅使河原は、僕の視線に気がつくとぱっと笑顔に戻った。僕が押しの強さとそのやり口から勝手に苦手意識を抱いているだけで、勅使河原は僕に強くあたることはない。むしろ、一部の人を除いては友好的だと言っていい。


 とにかく勝ちにこだわる方針を取った勅使河原は有能だった。パフォーマンスを審査する校長や教頭の好みを調べ、過去数年の作品を分析し、最適と思われる応援団の演舞に決めた。体育祭の出場種目も本来は生徒が希望するものを選ぶはずだったが、五十メートル走のタイムで大まかに振り分けた。


 そんな勅使河原に正面から反対したのが村瀬だった。気の強い勅使河原と穏やかながら芯のある村瀬。村瀬に対してライバル意識でもあるのか、勅使河原はもともと村瀬へのあたりがきつい。勅使河原は一歩も引かず、「もう決めたことだから」と押し切った。


 でも、それだけならよくあることだ。

 僕が気にかかっているのは、十月三日の放課後のあの事件のことだ。いや、事件といっても死体が見つかったとか暴力沙汰の喧嘩になったとかそんなことじゃない。些細なことだった。でもクラスの、そして村瀬の平穏を壊すのには十分な事件だったと思う。


 村瀬が完成間近の学級旗に白いペンキをひっくり返したのだ。


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