蝉の泣く日

riasu

蝉の泣く日

確かあの日も、蝉はよく泣いていた。

陽炎が、祖父の住む町を優しく包んで、私はそれを見ていた。


それは夏の出来事。


そこは栄えていて、衰える気配なんて、欠片もない。ただ賑わっていて、心おどる、懐かしい匂いがする。


それは、夏の出来事だ。


 * *


「ほら、行くわよ」

私の手を引く手は、白く華奢で、美しく、優しい手だった。

けれど私が泣く時、その手は余裕を持つことができなかった。密やかな戸惑い、苛立ち、そして不安が、確かに私の手へ温度を持って伝わった。

そうすると私はなおのこと動揺して、これまでの愛のストックで心の暖をとることを思い付きもせず、激しく泣いた。

親子の間の結び目は固かった。しかし二つの糸はどちらも、些細なことで大きく揺れたから、大変なことになっていた。

「なお、ほら、もうじいじのお家だから」

私は言葉も発さないで泣いていた。焦りが手の平から手の平を伝う。

ふと、私のもう片方の手が大きな感触で包まれた。血管の浮き出た、よく日に焼けている手。どっしりとした安心がそこにはあった。

「なお」

低い、優しい声。けれど俯いている私の目に、その人の笑った顔は映らなかった。

「ほうら、空を見てごらん。あれが何か、知っているかい?ひこうき雲だよ。綺麗だねえ」

私はそこでようやく顔を上げて、澄んだ青色を二つに区切る、切り取り線みたいな白を見た。

私はそれから、隣でにこにこと笑う祖父の顔を見つめた。空のひこうき雲を見つめる、母の横顔を見つめた。

「さあ、もうお家だ」

そう言うと、祖父は私の麦わら帽子を取って、涙を拭ってくれた。

それからもう一度、帽子を私の頭に置いて微笑んだ。

それが忘れてはいけない光景だと、そのときにはもう知っていた。



* *


あの時から、まだ10年も経っていない。

けれど状況は随分変わってしまった。

母の手は前よりも重みがある。そして前ほど白くはない。空に浮かぶ一本線を見つめた輪郭も、シャープとは言えなくなった。


そして何よりも大きな変化は、

祖父がもういないことだ。


それは、私の涙を拭う人はもういない、ということ。

それは、私にひこうき雲を教えてくれる人が、空よりも遠くへ行ったということ。


蝉はあの日と同じように泣いている。けれど、世界はあの夏と同じではない。

夏のようで、確かに衰える今は、人生の冬だ。


ひこうき雲が綺麗だと、私も伝えたかった。

祖父に言いたかった。


絵の具で塗ったような、そんな青空は私の届けたい想いすらも飲み込んでしまったのだろうか。

「待って!」という声もきっと今は届かない。

昔は、辿っていけばどこまでも行けそうな気がしたひこうき雲も、今は私を置いてどこかへ飛んでいくだけになった。

被っていた麦わら帽子を脱いで遠くの空を見上げる。

そこに大きく存在していた入道雲と、目が合ったような気がした。

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