彼と私と最初のビール

待居 折

19時までの入店で半額

「そうだなぁ…とりあえずビール…を、人数分」


 ネクタイの首元を緩めるサラリーマンが、メニューも見ずに注文する。


「三つですね。おつまみはどうします?」

「決まったらまた呼ぶわ」


 おしぼりで顔を拭く向かいの中年は、逆にメニューに目を落としたままだった。


「かしこまりました、少々お待ちくださーい」


 起伏なく返した戸谷とやは、伝票を記入しながら戻った。黙々とサーバーからビールを注ぐその顔を、沙織は笑いを堪えながら横目にする。




「ねぇ」

「何ですか」


 一通り料理を出し終え、手狭な厨房兼カウンターに平穏が戻ったところで、沙織が続ける。


「さっき、ちょっとむくれてたでしょ。何か面白くない事でも言われた?」

「や、俺には何も言われてませんよ」


 もう全く何も気にしていない戸谷に、沙織は微笑みながら首を傾げる。


「じゃあ…私に?」

「それも違います」


 リズミカルな音を立ててまな板を鳴らす戸谷は、仕込みの手を止めずに続けた。


「…なんで、いつもビールって『とりあえず』で注文されるんですかね」

「なにそれ」


 些細な事に引っかかる戸谷の通常運転が始まった。それだけでもう、沙織の胸はちょっと躍ってしまう。


「ビールの立ち位置の話ですよ。毎度毎度『とりあえず』って…可愛そうです。『本当に飲みたいものが控えてるけど、今のところはビールでいいや』って言ってるように感じるんですよね」

「…戸谷くん、親御さんがビール工場に務めてたりする?」

「しませんよ」

「あ、分かった。クラフトビールの醸造元を」

「始めたりもしてません」


 耐えかねて吹き出す沙織に目もくれず、戸谷は黙々と仕込みを続けている。


「何がそんなに面白いんですか」

「そりゃあ面白いよ、ビールの立ち位置だよ?お酒に思いを馳せて寂しくなる人、戸谷くん以外に会った事ないよ」

「…それ、光栄に思うのが正解ですか」


 真顔のままあしらわれるほど、沙織はコロコロ笑ってしまう。戸谷のやる事なす事が、どうにもツボに入ってしまうのだ。


バイトの手前、雇用主の娘が手を動かさないのは教育上良くないと思いますけど」

「それもそっか…本当に、戸谷くんがうちで働いてくれて助かってるよ。毎日退屈しないもん」

「それ褒めてないですよね」

「褒めてる褒めてる!これこそ光栄に思ってくれて良いからね?」

「何を急に偉そうに…王族でも気取ってるんですか」


 他愛も生産性もないやり取りに、目尻の涙を拭った沙織もまた戸谷と肩を並べ、狭い厨房でコンロにかけた小鍋と向き合う。




「ねぇ戸谷くん」

「本当にすぐ喋りますね…今度は何ですか」


 面倒そうな口ぶりも気にかけず、沙織は明るく続ける。


「この前の…デートのお誘い、前向きに考えてくれた?」


 返答がない。ちらりと目線をやると、戸谷は一心不乱に葱を小口切りにしていた。もう一声かけようかと迷う沙織に、平坦な声が返される。


「とりあえず保留で」

「ちょっと!さっきの話で言うなら、私可哀想じゃない?!」


 笑いながら怒る沙織を横目に、戸谷の口角がほんの少し上がった様に見えた。

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