取り敢へず シュレーディンガーの猫

ひとえだ

第1話 取り敢へず シュレーディンガーの猫

KAC20246 課題:トリあえず


 はるが言った”はなさないで”の意図を考えていた。

 ””と””どちらの漢字を充てるのが正しいだろう

  取りえず、

 両方満たせば問題ないだろう。

 高校の時、ラグビー部で鍛えた身体はこんなところで役に立った。遥をお姫様抱っこしたまま、駐車場に置いてある車までは涼しい顔で通せる。


 鳥のさえずりが聞こえる。

 風が木々を撫でる音が聞こえる。

 すれ違う人の冷やかす声が聞こえる。


 穏やかな顔をしている。

 世が世ならば名家めいかのお嬢様の遥は神々こうごうしささえ感じる。

 冷やかす声に臆する事も無い。

 ただ、遥と無言で一緒にいるのは辛い。


 取り敢えず

 話しかけられないので歌を口ずさんだ

 

 ””は名のみの風の寒さや

 谷の鶯 歌は思えど

 時にあらずと 声も立てず

 時にあらずと 声も立てず


 遥は笑顔で目を閉じた。子供が父親の腕の中で眠る風景を連想させた。

 鳥、逢えず

 2番の歌詞は忘れたので鼻歌にした。

 

 車のドアを開けると、遥はまぶしそうに目を開き”ありがとう”と告げた。

 僕の腕にありながら、少しの時間、会話がないことが極めて長い時間会っていない気分にさせた。

 しかし、今はもっと大事なことを処理しなければならない。


 抱きかかえた遥を助手席に下ろした。そのまま唇を重ねた。

 意図に反して遥は目を閉じて女になってしまった。

 背中に手を回して、下唇を軽く噛まれた。口を大きく開き喋るように唇を滑べらせる。首を傾げるようにして上唇を噛むと、今度は生暖かい舌が生き物のように唇を半時計回りでなぞっていく。

 

 僕が中断するのは初めてかもしれない。薄く開いた目はうっとりして、なぜ止めたのかを問うている。

 

 背中に回した遥の手が強く引き寄せる

「遥は変態えっちだな」

 遥は両手で僕を突き飛ばした

「大嫌いっ!」

「見られているよ」

 遥ははっとした表情になった。

 我に返ったようだ。


 取り敢えず

 運転席に座ると、エンジンをかけて空調を付けた。晩夏の車は熱い。熱い理由はそれだけではないが。ウエットティッシュを渡された。遥はルージュを直している。

 

 朧げな幽霊が遥のルージュを見ている。多分睨んでいるのだろう。

 幽霊に隙を見せたが反応が予想外だった。それ以上に予想外だったのは、遥がこの幽霊に気付いていないことだ。遥は自分を湖に引き込もうとした幽霊に気付いていない。


 着いたルージュを拭こうとしない僕に、化粧直しを中断して、遥は手をのばした。

 

 カーオーディオの音。

 空調の音。

 不規則なアイドリングのエンジン音。

 そして、遥の胸の感触。

 

 ルージュを拭き取る遥の指が優しい。遥の厚意に僕の顔に笑みが零れる

 

「葵はサカリのついた猫か?」

「ニャ~」

 遥は形代を出して

「出たな淫乱妖怪、私が祓って進ぜよう」


 淫乱か・・・

 赤い水玉のマイヨを着たロードバイクが道路を高速で抜けていった。

 ママチャリの未熟者では追いつけないなと思った。

 遥は、名家めいかの家名を護ってきた家に恥じない気品、教養と作法を身につけている。容姿も大人しそうで、人に接する態度も控え目だが、そんな見た目に反し、恋人同士の“営み”は貪欲だ。


 遥は“営み”の最中にしばし、物足らない顔をする。お互い服を着ているときには決してしない顔である。

 僕は付き合ってからいつも遥が喜んでもらえるよう、可能な限りの予習と準備をした。それを苦痛や面倒だと思ったことはない。遥はいつも笑顔で応えてくれるから。

 

 学科は得意でも実技はそうでもない。いやらしい例えだが、頭脳明晰な医者が手術が上手いとは限らないのと同じだ。


 正直な話、結婚後の”営み”が不安だ。僕の所見だと男女は寝るまでが一番刺激的だ。でも今は、遥と寝ることに負担を感じている。むしろ遥のことを想って一人で活動する方が何倍も興奮する。遥の反応を気にせず夢の世界に羽ばたけるから。

 

 トリあえず

 メイク直しが終わるまでニャ~と鳴いてからかった

「猫の話してよ」

「ニャ~」

「いつかシュレーディンガーが光源氏みたいに女好きって言っていたじゃない」

 

「非人道的な装置を備えた鋼の箱に閉じ込められた猫ね」

「そうそれ、シュレーディンガーの猫でしょう。文系卒の私でも分かるように説明してよ」

「説明を始めるけど、途中で飽きたら言ってね。止めるから」

「ちゃんと分かるように説明してよね」


 この装置には毒入り瓶があり、ハンマーで叩き割れるようになっている。”1つの”放射性元素が崩壊するとハンマーが作動する仕組みだ。もし元素が崩壊すれば、小瓶は破壊され、猫は毒を吸い込む。もし崩壊しなければ猫は無事だ。

 放射性元素はごく少数しかないために

【1時間のうちにおそらくそのうちの”1つ”が崩壊しますが、同じ確率で”ただ1つ”も崩壊しないかもしれません】

 この装置を1時間放置したとして、元素がその時間内に崩壊しなければ、猫はまだ生きていると考えられる。でも元素が”1つでも”崩壊すれば猫を毒殺してしまう。

 生きている猫と死んでいる猫を混ぜる。あるいはぐちゃぐちゃにする。

 それが僕(シュレーディンガー)の方程式で求められる解Ψです。


「まだ聞く?」

 遥は笑って

「がんばる」

「背景があって、EPR論文、2つの箱の中の1つのボールそして火薬の装填を経てこの猫の話になっている」

「難しくなってきた、簡単に言うと?」

 僕は笑って

「シュレーディンガーがアインシュタインをからかったんだよ」

「どういうこと」

「1935年時点ではアインシュタインは老害ってこと」

 発言に驚いている遥にたたみ掛ける

「遥はペットボトル1杯の水が1時間でどのくらいの原子核崩壊すなわち、放射線を出すか知っている?」

 遥は顎に手を当て考えた

「0でしょう」

「水には宇宙線で作られた三重水素トリチウムが入っているので、500 mlのペットボトルで1年前に降った雨水で生成した場合15位かな」

「そんなに!」

「そう、シュレーディンガーは権威ある老科学者を直接侮辱するわけにいかないから、婉曲に侮辱しているのさ、きちんと物理を学んでいない記者を初めとした一般人では解釈は不可能だろうな」

「この話はシュレーディンガーがアインシュタインを侮辱するために語ったの?」

「いや、シュレーディンガーの波動方程式のΨを正確に示している。日本語で言えば

 ”混ぜる”が”ゆらぎ”で”ぐちゃぐちゃにする”が”もつれ”かな」

 遥は聞いた事を後悔している顔になった

「波動と粒子の話だ。ハイゼンベルクとディラックは粒子から計算を始めて、シュレーディンガーは波動から計算を始めて同じ計算結果に到達した。

 遥は高校時代に虚数を学んだこと憶えている?」

「ああ、2乗すると-1になるやつね、あんなの何の役に立つの?」

 湖畔から駐車場まで遥をお姫様抱っこしたことを思い出して笑った

「この猫は3次元の箱の中に虚数を見ているようなものだよ」

 遥の顔の周りに?のオブジェが多数浮遊しているようにみえた。

 僕は話をまとめた

「幽霊が見える人が何で不思議がるか不思議だよ

 取り敢えず

 車を出しますか?」

 僕はシフトをDレンジに移してアクセルを踏んだ。

 遥はオーディオのボリュームを下げて

 歌い出した


 はると聞かねば知らでありしを

 聞けば急かるる胸の思いを

 いかにせよと この頃か

 いかにせよと この頃か

-了-

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取り敢へず シュレーディンガーの猫 ひとえだ @hito-eda

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