妻の研究
七雨ゆう葉
上書き
「良い天気ね」
「そうだな、絶好のドライブ日和だ」
道中、とある目的地へ向かう二人。
同僚兼、先月妻になったばかりの美
近々新勤務地となる、研究所。
新設されたその研究所は住まいから少し離れた
「ねえ浩紀。何か、音楽かけても良い?」
「あ、うん。いいよ」
「多分そこのグローブボックスの中に、適当にCD入ってるから。だいぶ昔のではあるけど」
「そう。でもむしろ、昔の方が懐かしくていいじゃない。私、最近の歌は全然詳しくないから」
美和は助手席の収納口に手をかけ、ガサゴソと中を漁ると、目に留まった一枚のディスクを手に取った。
その後、カーオーディオから流れ始めるメロディライン。
車に乗るのはだいぶ久しぶりで、都会でなくて良かったと思いつつ運転を続けていた浩紀の耳に、懐古を促す音色が響き渡る。
「あ、これ」
「どうかした?」
「いやぁ、すっごく懐かしいなって思ってさ」
聞き覚えのある曲目。それは学生の頃、浩紀が好きだったロックバンドのライブを模倣し作成した、オリジナルのアルバムだった。
「いや高校の時ね。好きだったロックバンドのライブに、当付き合ってた同級生の子と一緒に行ったんだよ。それが人生初のライブ観戦でさ。それがもう最高に楽しくて、興奮して」
「……そう。でも浩紀がロックだなんて、少し意外かも」
「まあ確かに、それもそうか。今やラボに
「うん」
「うわぁ、でも思い出すな~」
「思い出すって何を?」
「ああ。このアルバムのセトリ、あえずにいたその、当時付き合っていた彼女との事をいろいろとね」
「そのライブ終わりに彼女と二人でさ、『あの曲から息つく暇も無くこの曲を繰り出すなんて!』とか、『そこでその曲入れて来るか!』とか言って、夢中になって話してたのを思い出して」
「……ふーん。そう、なんだ」
「あれ? どうかした?」
「いや浩紀、懐かしいのはわかるけど。――そういうのサラッと、私の前で言うかな」
「別にいいじゃん。相当昔の、思春期の頃の話なんだし」
「そうだけど……。でもさっき言ってた、あえずにいたって、どういう意味?」
「ああ、じつはそのライブに行ったのをきっかけに。一度俺、バンドマンになろうと思ったことあって。そこから数年間、音楽やってたんだよ」
「でも結局は鳴かず飛ばずでさ。それに当時は今と違って、気軽に連絡取り合うなんてことも難しくて。彼女の父はものすごく厳格な人でさ、しばらくして交際してることが親にバレちゃってて、それで無理やり
「…………」
「でも昔の話だよ。彼女とは結局、そのまま別れたし。お互い気持ちが強かったら、何としてでも交際を続けただろうし。でもそれも無かったから。だから未練みたいなものも無い」
「ほんと?」
「ホントだって。だから今、こうやって美和にも話せてるわけだし」
「なら、いいけど」
高校時代の話に聴き入りつつも、少々むくれた様子が愛らしいと浩紀は思った。
「それより浩紀、もうそろそろ着いてもいい頃じゃない?」
「確かに。でも全然、建物見えてこないな」
ナビの通知はまだ無い。おかしい。迷ったか? 車外の景色は既に緑一帯に包まれ、目的地も近いはず。
路肩に一時停車し、浩紀はカーナビを改めて凝視した。
「確か」
「このあたりで」
「えーっと……」
「目的の、
「え?」
「ず、すいぶんと……過ぎちゃってる。何でだろ」
「うそ? ホント?」
「ごめんごめん、通知聞き逃したのかも。懐かしの曲にすっかり聴き入っちゃってて、そこからつい熱くなって話したからかな」
「…………」
「もう。でも見た限り、そんなに遠くは無いみたいだから良かった」
「まあ時間に追われてるわけでもないんだし、気軽に行きましょ。ね?」
「ああ、うん。ありがと」
そう言って車を方向転換させ、来た道を戻る。再設定したナビに沿って、浩紀は順調に車を走らせた。
けれど。
先程ああは言ってくれたものの、何処か歯切れの悪い感触。
その違和感を探ろうと妻を見やると、やはり少しスッキリしないというか……未だ彼女の頬に何か、小さな膨らみが残っているのを感じた。
◆
その後。漸く目的地へと到着し、三十分ばかしの建物見学と緑溢れる周辺散策を終え、再び車へと戻る。
新天地の景観は口コミ通り、格別なものだった。美和も気持ちよさそうに伸びをし、何度も深呼吸を繰り返していた。
普段は陽光の一切当たらない、無機質な空間での没頭作業。
良い気分転換になっただろうか。
これであとはもう、帰るだけ。
山合を抜け、街道へ。そこからは車線の数に比例し、台数も徐々に増えてくる。
ちょっとした気乗りも兼ね、浩紀は信号待ちのタイミングを見計らい、カーオーディオのボタンに手を伸ばした。
「「あ」」
同時に、美和の手が重なる。
「ラジオにしても、いい?」
「え?」
「交友……や、交通情報を知っておいた方がイイと思うから。今日は休日で混んでるし」
「そっか」
妻はそのまま指を滑らせ、FMラジオに切り替えた。
「良かった。この状況なら、渋滞に巻き込まれることもなさそうだな」
「そうね」
「いろいろとやる事あって、忙しいから。時間取られなくて良かったわ」
「え? やる事って? 美和、仕事溜まってるの? 帰ったらする気?」
それならそうと早く言ってくれればよかったのに。浩紀は思った。
「何なら俺も、手伝おうか?」
「それはダメ。これは別、だから。普段の研究以外にもいろいろやる事があるの」
「いろいろ?」
「そう。それも今日気付いたことで……」
「今後、上書きしないといけないから」
美和は普段穏やかだが、誰よりも研究熱心なのは知っている。
上書きとは、資料の作成か? それか、研究データか何かか?
思いつつ、信号が青に変わった。
「でも――」
いざアクセルを踏もうとした瞬間。
「この研究は苦じゃない、し……それに」
「負けられないから」
美和はそう言うと音量のメモリを上げ、何かを霧消させるかのように、カラっと微笑んで見せた。
何なんだろう、いったい。
感じながらも浩紀は「まあ、無理に介入しない方がいい」と判断し、以降の追究を胸の内に留めた。
ドライブに出かけた、その夜からだった。
その日を境に――。
美和の部屋からは頻繁に、浩紀が当時好きだった楽曲を含むあらゆるロックミュージックが音漏れし、聴こえてくるようになった。
了
妻の研究 七雨ゆう葉 @YuhaNaname
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