そこは海辺の街だった
谷橋 ウナギ
そこは海辺の街だった
1
とりあえず──ここはどこだろう?
心地よく繰り返す波の音。潮の香り。照りつける太陽。アスファルトは高温であるらしく、陽炎と逃げ水が見て取れる。
誰だかわからないこの若者はそのアスファルトの上に立っていた。
鏡がないので年齢は不明。しかし男だ。それくらいは判る。
問題は何故この場所にいるのか? そして自分は一体誰なのか?
「全生活史健忘ってやつか?」
取り合えず若者は呟いた。
この発言からも確かなように、知識は存在する。おそらくは。
例えばペンを見ればペンと判る。九九も言える。信長も知っている。
だが記憶が無い。記憶喪失だ。全生活史健忘と呼ばれる。極度のストレスや外傷などで、記憶が失われる症状だ。
つまり若者は記憶を用いず、状況に対処をせねばならない。
と、言う訳で若者は自分を──自分の持ち物を、探ってみた。
「スマホは無し。お、これは財布?」
するとズボンのポケットの中から、四角い小さな財布が出て来た。
黒い、布製の財布。安物だ。だが問題は中身の方である。
財布は金を入れておく物だが、大抵はそれ以外の物もある。運転免許や保険証。ポイントカードや病院のカード。
とにかく個人情報の宝庫だ。現在はそれがとても有り難い。
「今時カードも入ってないって……」
しかし若者の期待は外れた。
チャックを開けて中を見たものの、入っていたのは札と小銭のみ。
七千三百十五円。それ以外は本当に何も無い。レシートの一枚くらい有っても、罰は当たらないと、思うのだが。
とは言え、何も無いよりはマシだ。若者は、喉が渇いていた。
近くに見えた自動販売機へ。そこでなにか、飲み物を買うのだ。
売られているのは缶飲料。お茶にスポーツドリンクにジュースに。若者は少し考えた後に、小銭を入れボタンを指で押した。
「コーラだな」
自動販売機は、金さえ有れば客は選ばない。
ガランと言う音を立ててコーラが、取り出し口に向かって落ちてくる。
若者はそれを掴んで出すと、プルタブを開けてコーラを飲んだ。それなりに激し目の勢いで。液体を喉の奥に流し込む。
「ぷはー」
そしてゲップを一つした。
どうやら一つだけ解ったらしい。若者はコーラが、好きなようだ。
しかしそれだけ。後は謎のまま。なんの解決にもなってはいない。
だがその時、青天の霹靂。救世主が向こうから現れた。自転車に乗った青い服。所謂お巡りさんと言う奴だ。
これを逃す手は無い。若者は、お巡りさんに向かって手を上げた。
「あのー、ちょっと良いですか?」
するとお巡りさんが停止する。
そして自転車を降りて近づいた。
若者はなんと言うべきだろうか? それを考える能力など無い。
「実は俺、記憶がないんです」
そこで素直に、正直に言った。
お巡りさんは怪訝な顔をする。しかしここで去られたら大変だ。
「ジョークに聞こえるかも知れませんが、ジョークじゃ無くて。何もわからなくて。ヒントになる物も持っていなくて。ここがどこなのかすら謎なんです」
若者は畳み掛けた。必死だ。必死さ以外持ち合わせていない。
その必死さが伝わったのだろう。お巡りさんは優しく、微笑んだ。
「取り合えず交番に行きましょう。詳しく、お話を聞きますので」
そして自転車を押すお巡りさん。彼と若者は歩いて行った。
2
これが実に二年も前の話。
それ以来記憶は戻っていない。生活をすることは出来ているが。
記憶喪失者を支援している団体と言う物が存在した。若者は彼等の支援を受けて、今は一人で普通に生きている。
幸い物覚えは悪く無い。レンジでチンも陳列も可能だ。
名前も貰った。海野空。海で見つかったからこの名前だ。
今も家族は見つかっていないし、不安に思う夜も少なくない。
それでもとりあえずは生きていける。そのことに空は、感謝していた。
そこは海辺の街だった 谷橋 ウナギ @FuusenKurage
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます