KAC20246 トリあえず、乾杯!

霧野

第1話 鹿沼友希の戦略

「鹿沼くん、これは?」

「その鶏、和えずに後でソースかけます。豚しゃぶの方は胡麻ドレと和えちゃってください」

「胡麻ドレ……これか?」

「その隣のやつです……って市川支部長、もういいですから座っててください」

「でも、君の引越し祝いなのに全部やってもらうのも…」

「あとは蕎麦茹でるだけですから」


 ストーカーの正体が総務部の人間で、社員の個人情報を盗み見られていたことがわかったため、鹿沼は即座に引っ越しを果たしたのだった。

 会社は慌てて個人情報へのアクセスを制限したが、それまでの社内セキュリティはゆるゆるだったわけで、今時どうかと思う。

 だがある意味、そのおおらかな体制のおかげで、彼と市川の殺人未遂の件が露呈せずに済んだのかもしれない。そう思うと、あまり会社側を責める気にもなれない。

 そしてそのストーカーが会社役員の姪だったこともあり、その件を不問に付す代わりに転居費用は全て会社持ちとなった。なので取り敢えず、おとなしく引越しに応じた形だ。



「なんか悪いね」

「いえいえ、物件探しも引越し作業も助けてもらいましたし、これも冷蔵庫の在庫処分みたいなもんです。食材食べ切る余裕がなかったから」

「まぁ、急な引越しだったしな」

「急だったわりにいい部屋見つかったんで、満足してます」

「でも、職場から一駅離れちゃっただろ?」

「一駅分くらい、何でもないですよ」


─── 市川支部長の家に近くなったし……とは言わずに、鹿沼は着々と料理を進めていく。これからさまざまな理由をこじつけて、こちらも着々と、彼との距離を縮める算段だ。

 差しあたっては仲の良い上司と部下という関係を深め、やがて年下の友人から親友へ、さらにじわじわと相手の生活に食い込んでゆき、無くてはならない存在へ。ゆくゆくは人生のパートナー……とまでは言わないが、当たり前にそばにいられる間柄にまで持っていくつもりだ。



「お蕎麦出来ました。仕上げに、鶏胸肉にこのソースを…」


 柔らかく蒸しあげた鶏胸肉の皿に、熱した葱油ソースをかける。ジュウッと音をたて、醤油と胡麻油の食欲をそそる香りが立ち上る。たっぷり添えた白髪ネギと針生姜が油を浴びて輝き、ソースに入れた少量の鷹の爪が彩りを加えてくれた。


「おお、うまそう!」


 身を乗り出して目を閉じ、ぶ厚い胸いっぱいに香りを吸い込む市川を見て、鹿沼は内心ほくそ笑んだ。よしよし、胃袋の調教は順調。

 市川支部長の秘書をしているだけあって、彼の食の好みは把握しているのだ。


「この、豚しゃぶの胡麻ドレ和えも美味しいですよ。隠し味にわさび使ってて、ビールによく合います。蕎麦の方も、蕎麦つゆと胡桃ダレありますから、お好みで」


 広めの1LDK。カーテンの隙間から見える空には星が瞬き始めている。

 作業中にかけていたラジオのニュースでは、GW並みの暖かさだと何度も言っていた。実際、作業をしていると汗ばむ陽気で、引っ越し日和だった。陽が落ちた今は流石に涼しく、時折窓から入る風が心地よい。


「いろいろお世話になりました。ありがとうございました」

「お疲れさん。じゃぁとりあえず、乾杯!」


 隅っこに未開封のダンボールが積んである殺風景な部屋で、二人は缶ビールを開けた。



 程よく腹が膨れる頃には、6本パックのビールが空になっていた。「肉体労働の後のビールって格別ですよね」などと言ってどんどん勧め、尚且つ飲んだ量を目の当たりにせぬよう空き缶をすぐに片付けた結果だ。ちなみに鹿沼自身は2本しか飲んでいない。


 市川がトイレに立った隙に、鹿沼は湯を沸かして紅茶を淹れた。市川の好きなアールグレイ。そこに、ブランデーを多めに垂らす。


「ビールでお腹冷えたでしょう。紅茶淹れましたよ。市川さんの好きな銘柄です」


 戻ってきた市川に勧めると、大袈裟なほどに感激した顔をする。


「鹿沼、君は本当にいい奴だ。俺なんかのために、紅茶まで用意しておいてくれて……」


 グッと言葉を詰まらせ、市川は涙ぐんだ。いい感じに酔っている。でかい図体の割に酒に弱い市川は、ある程度酔うとウエットになるタイプの男だった。接待などで度々酒の席を共にする鹿沼は、当然それも把握済みだ。


「俺はさ、鹿沼。嬉しいよ。別れた嫁も子供も、もう3年は会ってない。鳥取だよ? 遠いだろ? 俺、寂しかったんだよ」

「鳥取……会えずにもう3年ですか。コロナがあったとはいえ、長いですね」


 紅茶を継ぎ足し、さらに多めにブランデーを追加する。


「娘も最近じゃ部活が忙しいらしくてさ、電話でもろくに話せないし……」

「まあまあ、代わりに僕が話聞きますよ」


 ……悪いけど、支部長の別れた家族の話なんて全く興味ない。


「今日は有り合わせだったけど、また何か美味しいもの作りますから。いつでも食べにきてください」

「うぅ、鹿沼……」

「でないとまた、変な女に引っかかっちゃうでしょう」

「鹿沼ぁ……それを言ってくれるなよぉ……」


 情けない声を出してふにゃっと項垂れる市川の肩に、そっと手を置いた。


「わかってますから。お酒の勢いで力加減間違えちゃって、ぶつけどころが悪かっただけなんですよね? 殺す気なんか無かった。僕、誰にも言ったりしませんから」


 優しくそう言うと、市川の目からブワッと涙が溢れた。

 これも鹿沼の思惑通り。揉み合った拍子に飲み屋の女を殺してしまったと思い込み、その場から逃走したあの夜。市川の心に残っている、あの時の恐怖と罪悪感を思い出させるのだ。そして優しく包み込み、依存させていく。

 気絶したまま市川の個室で一夜を過ごした彼女に出くわし、逆上して鹿ことを言うつもりはない。とりあえず、今のところは。



 背中を丸めて「うん……うん………」と涙を流す市川の大きな背中を、力を込めて何度もさすってやる。


「怖かったでしょう。大丈夫ですよ、彼女はちゃんと生きてる。朝方部屋を出ていくところを僕が見たんだから、間違い無いです。それに彼女、あの店辞めたそうですよ」


 えっ、と市川は顔を上げた。酔っ払って赤くなった顔が涙で汚れて、実に情けない。情けなくて、みっともなくて、可愛らしい。


「確かめてくれたのか?」

「ええ。『シトラス みかん』でしたっけ? 部屋に名刺が落ちてたんで」


 鹿沼はまた嘘をついた。本当は彼女が失神している間に所持品を調べて名刺を見つけたのである。だが、彼女がその店を辞めたのは本当のことだ。


「きっともう会うこともありませんよ。大丈夫。何かあったら僕に言ってください。僕は市川さんの味方ですから」


 感激して前みたいに抱きついてこないかな、と鹿沼は思ったが、市川は腕で涙を豪快に拭って紅茶を飲み干し、落ち着きを取り戻した。


「ありがとう。本当に、君には感謝している」

「それは僕のセリフです。いつもお世話になってるし、今回の引っ越しだってたくさん助けてもらって」


 ボックスティッシュを手渡すと、市川は盛大に鼻をかんだ、すかさずゴミ箱を差し出す。


「それにしても、『シトラス みかん』って変な源氏名ですよね」


 フフッと笑って見せると、市川も釣られて笑う。


「馬鹿みたい」


 そう畳み掛けると、市川の笑顔は苦笑いに変わった。


(どうせ、店では『可愛い名前だね』とかなんとか言ってたんだろ。しょーもな)



 ─── まあ、いい。とりあえず、湿っぽい空気は変わった。支部長の表情も明るくなったし。さりげなく『支部長』から『市川さん』呼びにシフトできたし。


「そうだ。よかったら、この辺のスーパーとか病院とか、教えてくださいよ」

「ああ、もちろん。あ、でも……病院もスーパーも行かないからなぁ。ジムかコンビニくらいなら……あ、今『こいつ使えねえ』って思ったろ」


「……思ってませんよ」

「筋肉バカとか」

「それはちょっと思いました」

「おーまーえー、このおおおお」


 殴るふり避けるふりでじゃれ合いながら、鹿沼は思った。



 これでいい。

 ここがくつろげる場所であると感じてもらえれば。

 安心できる存在がここにいると思ってもらえれば。 



(……刷り込み、完了)


 これでいい。

 今のところは、とりあえず。





終わり

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