予感
夏生 夕
第1話
屋敷に仕えて1年になる。やっとここでの生活に慣れてきたところだ。屋敷には旦那様と奥様、そしてお二人のご子女であるお嬢様が住んでいて、大変仲がよろしい。
仲睦まじいのは外でだけだ。
珍しいことでは全く無い。
旦那様は他所の女共に夢中、奥様も若い燕に入れあげ始めた。燕、は死語か。お二方ともお嬢様へ関心を寄せられないのは、彼女が、世間からの体裁を気にして引き取った養子だからという点も大きく作用しているだろう。自分達で連れておいて勝手な話だ。
お嬢様はこの屋敷にいらした当初から体が弱く、たまに臥せって部屋へ籠ってしまうという。家庭の環境を考えれば、元気いっぱいの俺だったとしても体壊して引き籠もると思うが。外出の機会が極端に少ないためか生まれつきか、肌は病的なまでに白いのだ。
しかし、その透き通るような肌は俺に故郷の妹を思い出させ、注意を引き始めた。
体調に関わらずお嬢様の世話は自然、屋敷で従事する俺達が全て担っていた。仮でも親の二人に比べ、多くの時間を共に過ごす。
お嬢様は常に、俺達への感謝の姿勢を崩さなかった。出生が孤児らしいこともあったのかもしれないが、それを差し引いても、従者への態度というには丁寧で謙虚だ。身内としての安心感を家族でもない俺達に求めているとしたら憐れだが、こちらからすればそれは光栄なこと。そう思わせる魅力が彼女にはある。
愛らしい瞳に感情豊かな声は親しみを抱かせ、かと思えば華奢な肩は庇護欲を誘う。調子の良い時は頬に淡く紅が差し、可憐に微笑むのだ。その色に釣られて思わず触れてしまいそうになる。
俺は、俺の彼女に対する感情が妹へのそれとは異なる愛情に変化していたことに気付いた。
許されないことだ。お嬢様と俺とでは、まるで生きている世界が違う。到底叶わないし叶うことを願ってもならない想いだろう。無理にでも胸に仕舞い込もうと、ここ最近は躍起になっていた。
今晩も乱れた心を鎮めるために夜深く外出していた。今の職に就くまでは夜中に活動するのが主だったのだが、この夜間活動が原因で前の屋敷を追われている。
二の舞はごめんだし、何より彼女の屋敷から離れることは耐えられない。だから我慢していたのだが、限界だった。
深夜。
帰宅すると屋敷の様子が何やらおかしい。こんな時間なのに、誰かの気配が強い。まさか外出がバレて、待ち構えられているとか?
しかし出入りには慎重をきたし3階の窓を使った。従業員の寝室は1階。そうそう物音にも気付かないはずだが。
ひとまず部屋に戻ろうと足音を忍ばせて階下へ向かう。すると2階、ちょうどお嬢様の部屋がある方から何かが聞こえた気がした。
まさか、何者かが侵入しているのだろうか。
サッと顔から血の気が引いて、嫌な汗が額に吹き出た。急いで、しかし静かに部屋の方へ向かう。やはりこっちから聞こえてくるようだ。
ちょうど部屋の前まで来たとき、中から呻き声のようなものが聞こえた。
いてもたってもいられず、考えるより先に体が動いた。
「お嬢様!」
「え!?」
驚いたように声を上げて振り返ったのは当のお嬢様で、その口元からは月光に照らされていても分かるほどに赤々とした血が滴っていた。
しかし様子が変だ。
「ご無事ですか!」
「え、ちょ、ちょっと待って、え?」
ベッドから立ち上がり慌てた様子の彼女の足元には、一人の人間が倒れ込んでいる。首筋には二ヶ所の刺し傷。
どうなってるんだ?血の匂いが濃くて、考えられない。
「…は?」
「え、あの、ノック、してください…」
「あ、すいません…お嬢様に何か、あったのかと…」
「あぁ、そう、ありがとう…
っていうか鍵…」
「ごめんなさい壊しました。」
「嘘、こわ…」
混乱した二人からは場にそぐわない会話しか出てこない。というか、いつもより、見たことないほど、お嬢様が元気だ。
「えっと、その、人は…」
よく見るとそれは女で、しかも恐らく従者の一人だ。
「…はぁー、
見られたんなら、仕方ないわね。」
間違いなく彼女の声なのに、聞いたことのないほど冷たい声音に驚いて顔を上げるが、それは彼女が俺を引き倒した後だったと床に頭を打って気付く。
至近距離で彼女と目が合う。
「このことは忘れることね。誰かに話してごらんなさい。
分かるわよね?」
言うが早いか、彼女は俺に口付けた。何が起きているのか分からないまま俺はされるがままになっている。
彼女は触れたときと同じだけそっと離れると、人差し指で俺の唇をぬぐった。念願だったはずのキスは血まみれだ。
「これで、あんたが今日のことを口にすればわたしには分かるから。」
彼女は血の移った指を自らの唇に添え、薄く開いた口元から囁くように吐息を鳴らした。その微笑みには可憐さの微塵もない。
次の瞬間に胸の辺りが刺されたように痛んだ。その痛みで全てを理解し無意識に体が震えた。
歓喜で。
「…あっはは、なんだぁ、そうか。
お嬢様あんた…そうかぁ。」
「は?なに…」
眉間に皺を寄せてこちらを見下ろした彼女の口元を力強く掴んだ。手の平に温かい息が当たる。彼女は目を白黒させて固まった。無理もない、力づくでほどけないのだから。
「俺、お嬢様のこと諦めなきゃなって思ってたんですよね…でも、はは、
なんだぁ、言紋つかえるほどの、同類だったんですねぇ。」
ようやく俺の手を振り払ってお嬢様は飛び退いた。
「言紋、って、あんたまさか…」
「うん、そう。」
風が大きく彼女の髪を振り乱し、ようやく窓が開いていることに気付く。
「俺も、お嬢様と同じですよ!」
月が綺麗な夜だ。
「ふたりだけの、秘密ができましたね。」
予感 夏生 夕 @KNA
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