はなさないで

一河 吉人

はなさないで

「パパ、ぜったいだからね」


 振り返った娘が、必死に訴える。


「ぜったい、ぜったいだからね!」


 震えながら、座席にまたがる。


「ぜったい、はなさないでね!!」


 私はサドルを右手でしっかりと掴み、怯える娘に笑って応えた。


「大丈夫、しっかり握ってるから」



 そして、娘は飛んだ。



「わ、わあ!」


 そう声を上げると、体半分ほど遠くなった地面に目を向け、


「ういてる!」


 グリフォンの背で、満面の笑みを浮かべた。



 ここ、ヴェルナールは険しい山と深い谷からなる地方だ。街へ降りるのはもちろん、下手をすれば隣の家にすら切り立った崖をいくつも超えていかなければならない、そんな極限の高地。魔物の脅威が小さいのはいいが、とても人間の足で生活するような場所ではなかった。そんな我々の足代わりとして愛用されているのが、やはりこの地に生息するグリフォンたちだった。


 ここでは、老いも若きも鳥獣を駆る。グリフォンに乗れてやっと一人前、というか乗れなければまともに生きてはいけない。移動、狩り、採取、水くみ――全ての労働はグリフォンと共にあった。五歳の誕生日から練習を始め、一、二年ほどをかけて慣れる。そして、十分な実力を認められれば、自分の愛鳥を与えられるのだ。


 娘のファラウは先日五歳の誕生日を迎え、いよいよ今日からグリフォンに乗る練習を始めることになった。いつもは私や妻と一緒に乗っているので、騎乗自体は慣れっこだ。だが、一人はやはり恐ろしいもの。鳥獣が高く飛んていかぬよう私が命綱を握り、バランスを崩さぬよう横についてサドルに手を掛けているとはいえ、不安は尽きないだろう。娘は朝からずっと不安を隠そうとしなかった。


「とんでる! わたしとんでる!」


 だが、今では初めての一人乗りにすっかりはしゃいでいる。その喜びようを見て、私の心にもまた温かいものが広がっていった。


「フーちゃ~ん」


 私の呼びかけに、娘はとびっきりの笑顔で振り返った。


「ばあ!」


「ぎぃやああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 そして、両手を離してバンザイした私を見て叫んだ。うーん、我が娘ながらいい反応だ。


「どうしてはなしてるのおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!」


 それはね、お前が可愛いからだよ。


 私は泣き出した娘と、飛び散る涙と鼻水を満たされた心で眺めた。ああ、この子もこんなに大きくなったんだなあ――


 いや、誤解しないでほしいのだが、別に私の趣味が児童虐待だとかそういう訳ではない。これはヴェルナール地方における一種の伝統というか、大人になるための通過儀礼なのだ。連綿と受け継がれてきた、長い長いしきたり。私も、私の父も、私の父の父も、こうやって突如大空へと放り出され、半狂乱で大泣きしたものだ。


 空は恐ろしい。


 ヴェルナール人は天空の民だ、だがその我々を持ってしても、墜落事故を完全に防ぐことはできない。年に何度かは大怪我をする者が出るし、数年に一度は悲しい別れを体験することになる。


 人間に、羽はない。結局は、地上の生き物。それを決して忘れないために、魂に教えを刻み込む。そして思い返すのだ、グリフォンに飛び乗るとき、獲物の背中を追うとき、長旅に羽を休ませるとき――


「ぎぃやあああぁぁぁ!!!! パパのばあぁぁぁかああぁあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 うーん、いい眺めだなあ。


 自分のときを思い返せば、もちろん心底恐怖したし向こう一ヶ月ほど父と口を利かなかったりもしたが、やはりそれくらいのショックを与えないと効果がないのだ。子供は馬鹿だ。娘は女の子なので私ほど愚かではないだろうが、しかし母譲りの気の強さは多少心配だった。目に入れても痛くないほど可愛い我が子だからこそ、心をオーガにして伝えなければならないことがある。


(やはり、あの子には驚かせた方が効き目があるな。東洋に伝わる伝説の鬼「ナーマハーゲ」の衣装作りを急がねば……)


 私はどんどんとクシャクシャになっていく娘の顔を眺めながら、半年後に来る第二の試練、一年後の第三の試練に思いを馳せた。


 天宝山に住むハイグリフォンは生まれたばかりの子供を谷底に突き落とし、登ってきたものだけを育てるという。さすがにそこまでは真似できないが、彼らを信仰する我々グリフォンライダーにとって、試練とは欠くことの出来ない神聖な儀式だ。いや、ポワソエーラ地方の奴らは実際に子供を地面に叩き落としてるらしいが、人としてさすがに引く。


 これはあくまで訓練であり、怪我をさせるなんてもってのほかだ。もちろん、今回の飛行も安全には十分に配慮してある。ファラウが乗っているグリフォンは、私と五歳のときから一緒に育ってきた大事な相棒だ。もはや言葉も必要ないほどの、手綱をちょいと引っ張るだけで全てが伝わる、妻よりも近い関係。だけどそれは仕方ない、私だって妻と妻のグリフォンの間には割って入れないし、それは妻の両親だってそうだ。我々にとってグリフォンとは、そういう存在なのだ。


 相棒は賢い鳥獣だ。子供が落ちないように飛ぶくらいはお手の物、今だって低速で低空を安全飛行しているし、たまにケツを大きく揺らして娘を怖がらせたりとノリノリで教育的指導を続けている。それに、私だって娘の頑張りを涙ながらに見ているだけではない。万が一の事態には風魔法で優しく受け止められるよう、魔力は練りっぱなしだ。


 だから、


「ぎいいぃぃぃぃぃやああぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁあぁぁぁぁあああああああ!!!!!」


 これくらいのアクロバットは問題ないのだ。


 スラロームは矢を避けるのに必須だし、宙返りは地面全体を確認するのに便利な技だからな、どちらも慣れておいたほうがいい……おお、あんなに涙と鼻水で顔面グチャグチャなのに、手綱だけはしっかり握って離す様子もない、やはりあの子は才能があるぞ!


 私は魔力を集めた手を握り、娘の飛行を眺め続けた。


 娘は強かった。


 髪をこれでもかと乱し、目は真っ赤に腫らし顔中はベチョベチョにしたが、しかし一刻ほど飛行を中断もなく見事乗り越えて見せたのだ。そして何より、地上に降り立ったあの子の、力強い光を灯したあの瞳!


 もはや怯え震えていた姿はどこにもない、そこには確かに試練に打ち勝った一人の戦士の姿があった。むしろ、私の方こそ歓喜に打ち震えた。おお、偉大なるハイグリフォンよ、貴方の加護に感謝します!!


「マ……」


 空の恐怖を乗り越えた娘は、どこか憑き物が落ちたような、すっきりとした顔で言った。


「ママに言いつけてやる」


 私は相棒と二人、腹を天に向けた。


「ママにだけは話さないで下さい」


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