夜に游ぐ

若生竜夜

夜に游ぐ

 ああかわいそうに……あんなにおよぎたそうにして……。先ほど夜道ですれ違った方に、わたしはいつものあわれみをおぼえました。その方は体の内にぽっかりと黒い空洞を抱えていて、つるんと白い背骨と脈打つ赤い心臓の間に、ぬらぬらと光る尾や長いひれをくねらせる虹色の大きな魚をまわせていたのです。月のない暗い夜にまれに出会う、そんな人間の一人でした。

 夜にはいかいするそういう人たちに出会ったのは、そうですね、いくつのころでしたでしょうか。十代ではなかったはずです。記憶では二十代……就職して、人の多すぎるこの広い広い町へ引っ越してきたあとだったとぼんやりと思い出せます。

 はじめて出会った一人はアパートのお隣さん。わたしととしの近い女性でした。明るい色の髪と軽やかなお化粧の、見るからに町のお嬢さんです。彼女とは、通路ですれ違ったとき、上り下りの階段ではち合わせたとき、ごく普通に、「こんにちわ」とか「暑いですね」とか、あいさつほどのあたりさわりのない言葉をかけあう。そんな程度の顔見知りでした。ええ、お隣さんとはいえ、深い付き合いはありません。人の多すぎる町の、それも賃貸アパート住まい。自分のほかに、どんな人間がすました顔で住んでいるかわかりません。お隣の人に留守をお願いしたら、その人は実は泥棒で、部屋に空き巣に入られた。なんてほんとうらしい噂が世間に流れているくらいです。あいさつほどのごくごく浅い付き合いが、なんについてもちょうど良いのです。

 そうやって暮らしはじめて数ヶ月。だんだんと汗ばむようになってきた時期の、月のないある夜でした。時計の針も天辺を遠く過ぎて、街灯のうす暗いあかりだけが足下の頼りでした。わたしは会社に忘れた家のかぎを取りに戻り、ひとり心細い思いをしながらふたたび夜道を帰ってきたところでした。そんな時間にお隣の彼女と、アパートの下の道ですれ違ったのです。「こんばんは」と声をかけたと思います。夜遅いにもほどがある午前一時過ぎ、とはいったものの、知っている人間と行きあったわけでしたから。

 だけどお隣さんの目が、わたしに向くことはありませんでした。ふわふわとまるで現実を知らない夢見る人の足取りで……虹色の大きな尾が、長いひれが、真っ暗な中にひらりとひるがえるのが、見送った彼女の背より少しの間はみ出して見えたのです。ええそうです、わたしはてっきり幻だと思いました。もしくは自分は寝ぼけているのだろうと。目元を指でこすったせいで、化粧がすっかりよれました。だけど消えなかったのです。お隣さんの背中には、ぽっかりと暗い穴が口を開け、つるんと白い背骨と脈打つ赤い心臓のある体の中の空洞が、はっきり見えていたのです。大きな魚の尾も、長いひれも、虹の色にぬらぬらと光をたたえて見えました。

 恐ろしい、と思うべきだったのでしょうね。その場から逃げ出して、自分の部屋に逃げ込んで、とんをかぶり朝までじっと息を潜めて震えて過ごす。きっとそれが正しい姿。だけどわたしは……わたしが持ってしまった感情は、まったく違ったのです。恐ろしい……いえ、すこしも。とてもとてもうつくしい……この上もなくうつくしい……。たまらないものを感じたそれに触れてみたい。なんてわたしは思ってしまったのです。

 ぽかりと空いた暗い穴に浮かびあがるむき出しの骨の白さ、脈打つ心臓の赤、ぬらぬらと尾や長いひれをくねらせる大きな魚の虹色、どれもこれもが触れてみないかとわたしにそっと耳打ちをして……。ちょうどデパートの展示で目にした、闇色に極彩色の花々と髑髏しゃれこうべを取り合わせるモダンな版画。あれと同じように、わたしは目をうばわれて、それで、それで……自然と足が動いてしまったのです。追いかけて、手を伸ばしてしまったのです。

 魚の尾は、ひんやりとした上等なうすいシルクの感触で、うっとりするそれを指に感じたとたん、お隣さんの心臓ははじけて、彼女はサアッ……と風に散る霞と崩れて夜にとけてしまいました。跡形もなく、骨も身も、身につけていた衣服さえも、すべて夜にとけてしまって。ただ魚が…… 虹色の大きな魚だけが、なめらかに動く尾を、長くうつくしいひれもつ体を、ぬるりぬらりとくねらせて、星のない真っ暗な空へゆったりとおよぎ出したのでした。

 その日からです、わたしが夜にさまようようになったのは。

 はじめのうちはただ闇雲に夜中に外を歩き回るだけ。とりとめのない探し方で、体の内に抱えた空洞に虹色の魚をまわせる人間は、めったに見つかりませんでした。月に一人もどころか、二ヶ月、三ヶ月とむなしく町をさまよって、もうやめてしまおうか、とがっくりと肩を落とす日も何度となくありました。けれど、どうしてもやめられなかったのです。あのぽっかりと暗い穴に浮き上がる、白い骨の、赤い心臓の、ゆるやかに身をくねらせる大きな魚の長いひれの、たまらなくあやしいゆらめき、目をそらせないうつくしさ。虹色に色うつりゆく尾に触れたときのひんやりとなめらかな感触……肌の上をすべる絹に似た感触……それらがみな繰り返しわたしの内によみがえって、夜が来るたびに探しに行かねばと焦燥をかき立てたのです。

 息苦しい夏がき、駆け足の秋が去ったあと、ぶ厚いコートのそでに腕を通してわたしは気づきました。月のない暗い夜、真夜中を遠く過ぎた時間。星の見えない空が広がる日ほど、彼らに出会いやすくなる、と。

 それからは、前よりもずっと探すのが楽になりました。たとえば赤い信号のチラチラと点滅する交差点で。オフィスビルの鏡に似た大きなガラスドアの前で。街灯の陰になる高架下の公園とか、大通りをまたぎ住宅街へ向かう歩道橋のだらだらとした階段でも。たいして夜をさまよわなくても、一度に二人三人とまとめて見つかる日すらあります。触れたどの人たちの魚も、うっとりする感触で……わたしの目の前で、空へと優雅におよぎ消えてゆきました。

 もしかすると、わたしは彼らの孵化ふか……いえ、長いひれはねのようにはためかせて空へとのぼるのですから、羽化うかという方が近いのかもしれません。そう、羽化うか。わたしは魚たちの羽化うかを手伝っていたのかもしれません。霞となって散ったあと、その人の存在は文字通りきれいさっぱり跡形もなく、世の中から消えてなくなってしまうのですが。抜け出した魚は……虹色に色うつりゆく魚だけは、夜の空をずっと、心地よさそうにゆったりとおよぎ続けているのです。一匹一匹の区別なんて、わたしにはとうていつきません。けれど時々、ふっと見上げた先、暗い夜空に虹色にゆらめくあやしい姿を見かけた際に、あ、あれはわたしが放ってやった魚だ、とどうしてか気づくのです。気づいて、やはりうつくしく、いとしい……と、不思議な感慨がこみ上げるのです。

 こうしてわたしがうっとりする夜を何百となく繰り返すうちに、いつのまにか十四、五年あまりが過ぎてゆきました。

 ようすがすこし変わったのは、この春ごろ。桜のつぼみがそろそろ開こうかと、根にたくわえたあかい色を吸い上げ始めたころからです。

 見上げた夜空に魚を見つけるとき、大抵の場合、彼らはただ一匹でゆうゆうとおよいでいました。虹色に色うつりゆきながら孤独に空を行く姿はあやしくもうつくしく、だからこそわたしはいっそう心かれたものでしたが。その一匹ずつだった彼らが、桜のつぼみがふくらみほころぶにつれて次第に五匹、十匹、と増えて群れでおよぐようになり、満開になるころにはついに万の群れでおよぐ大群となっていったのです。魚の尾が、長いひれが、夜空をかき混ぜる音が聞こえてきそうなほどのすさまじい大群で、ちょうど、しばらく前に世の話題をさらったアクアリウム。おぼえていらっしゃるでしょうか、何万匹もの赤がうつくしい金魚ばかりを大小さまざまに組み合わせた水槽におよがせて、ほのぐらくゆらぐ光を当て、妖艶な迷宮に仕立てあげたアクアリウムの展示。色こそ違っているのですが、あれを思い出す光景です。わたしは群をじっと眺め、ふと気づいて目をみはりました。虹色のたくさんの魚たちは、いったいどこから来たのでしょう、と。

 ずいぶんと歳月をかけたとはいえ、わたしが空へと放った魚は、せいぜいがところ数千程度……どんなに多く見積もってみても、万の数には届かないはずです。まさか空で増えたのでしょうか。あるいは、この町には、わたしのほかにも魚に触れて夜の空へと放ってまわる人間が、案外たくさん隠れているのでしょうか。わたし以外にもあの魚たちに触れ、うつくしいとでる者がいると考えると、すこしばかりもやりとします。どうやらわたしは虹色の魚たちを独り占めにしたかったようなのです。わたしだけが知っている、みつの秘密にしておきたかったようなのです。

 影絵となった高いビルの傍らを、街灯のあかりをうけたべにさんの桜の上を、暗い夜空を背景に、虹色にゆらめく魚の群がおよぎゆくのを見ていると、世界がまるごと水の中に閉じ込められたのだと錯覚してしまいます。と同時に、胸の内側でなにかが、ぬらり、と動く感触がするのです。まるでわたしの中に、特別ななにかがんでいるかのような、ひんやりした感触が、今もぬらり、と動くのです。

 ああ、ごめんなさい。追いかけて、初めての方に、ずいぶんと長く語ってしまいました。今夜はもう桜はすっかり盛りを終えてあとは風に散るばかりです。けれど魚たちのおよぐ空の上は、ひんやりとまだ冷えているでしょう。水底のように心地く、つめたく冷えているでしょう。

 そうですね、わたしの中にも虹色の魚がんでいるのかはわかりません。けれど、これだけは、確かに言えます。あなたの内……先ほど夜道ですれ違ったあなたが抱える空洞に、ぬらぬら光る魚がいて、ひんやりと冷えた夜の空をおよぎたそうに尾をゆらしている。これだけはほんとうの、ほんとうに、確かなのです。

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