夜に游ぐ
若生竜夜
夜に游ぐ
ああかわいそうに……あんなに
夜に
はじめて出会った一人はアパートのお隣さん。わたしと
そうやって暮らしはじめて数ヶ月。だんだんと汗ばむようになってきた時期の、月のないある夜でした。時計の針も
だけどお隣さんの目が、わたしに向くことはありませんでした。ふわふわとまるで現実を知らない夢見る人の足取りで……虹色の大きな尾が、長い鰭が、真っ暗な中にひらりとひるがえるのが、見送った彼女の背より少しの間はみ出して見えたのです。ええそうです、わたしはてっきり幻だと思いました。もしくは自分は寝ぼけているのだろうと。目元を指でこすったせいで、化粧がすっかりよれました。だけど消えなかったのです。お隣さんの背中には、ぽっかりと暗い穴が口を開け、つるんと白い背骨と脈打つ赤い心臓のある体の中の空洞が、はっきり見えていたのです。大きな魚の尾も、長い鰭も、虹の色にぬらぬらと光をたたえて見えました。
恐ろしい、と思うべきだったのでしょうね。その場から逃げ出して、自分の部屋に逃げ込んで、
ぽかりと空いた暗い穴に浮かびあがるむき出しの骨の白さ、脈打つ心臓の赤、ぬらぬらと尾や長い鰭をくねらせる大きな魚の虹色、どれもこれもが触れてみないかとわたしにそっと耳打ちをして……。ちょうどデパートの展示で目にした、闇色に極彩色の花々と
魚の尾は、ひんやりとした上等なうすいシルクの感触で、うっとりするそれを指に感じたとたん、お隣さんの心臓ははじけて、彼女はサアッ……と風に散る
その日からです、わたしが夜にさまようようになったのは。
はじめのうちはただ闇雲に夜中に外を歩き回るだけ。とりとめのない探し方で、体の内に抱えた空洞に虹色の魚を棲まわせる人間は、めったに見つかりませんでした。月に一人もどころか、二ヶ月、三ヶ月とむなしく町をさまよって、もうやめてしまおうか、とがっくりと肩を落とす日も何度となくありました。けれど、どうしてもやめられなかったのです。あのぽっかりと暗い穴に浮き上がる、白い骨の、赤い心臓の、ゆるやかに身をくねらせる大きな魚の長い鰭の、たまらなく妖しいゆらめき、目をそらせないうつくしさ。虹色に色うつりゆく尾に触れたときのひんやりとなめらかな感触……肌の上をすべる絹に似た感触……それらがみな繰り返しわたしの内によみがえって、夜が来るたびに探しに行かねばと焦燥をかき立てたのです。
息苦しい夏が
それからは、前よりもずっと探すのが楽になりました。たとえば赤い信号のチラチラと点滅する交差点で。オフィスビルの鏡に似た大きなガラスドアの前で。街灯の陰になる高架下の公園とか、大通りをまたぎ住宅街へ向かう歩道橋のだらだらとした階段でも。たいして夜をさまよわなくても、一度に二人三人とまとめて見つかる日すらあります。触れたどの人たちの魚も、うっとりする感触で……わたしの目の前で、空へと優雅に游ぎ消えてゆきました。
もしかすると、わたしは彼らの
こうしてわたしがうっとりする夜を何百となくくり返すうちに、いつのまにか十四、五年あまりが過ぎてゆきました。
ようすがすこし変わったのは、この春ごろ。桜のつぼみがそろそろ開こうかと、根にたくわえた
見上げた夜空に魚を見つけるとき、たいていの場合、彼らはただ一匹でゆうゆうと游いでいました。虹色に色うつりゆきながら孤独に空を行く姿は妖しくもうつくしく、だからこそわたしはいっそう心
ずいぶんと歳月をかけたとはいえ、わたしが空へと放った魚は、せいぜいがところ数千程度……どんなに多く見積もってみても、万の数には届かないはずです。まさか空で
影絵となった高いビルの
ああ、ごめんなさい。追いかけて、初めての方に、ずいぶんと長く語ってしまいました。今夜はもう桜はすっかり盛りを終えてあとは風に散るばかりです。けれど魚たちの游ぐ空の上は、ひんやりとまだ冷えているでしょう。水底のように
そうですね、わたしの中にも虹色の魚が棲んでいるのかはわかりません。けれど、これだけは、確かに言えます。あなたの内……先ほど夜道ですれ違ったあなたが抱える空洞に、ぬらぬら光る魚がいて、ひんやりと冷えた夜の空を游ぎたそうに尾をゆらしている。これだけはほんとうの、ほんとうに、確かなのです。
夜に游ぐ 若生竜夜 @kusfune
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