ポメラの中を整理していたら、「晩夏に逝く」の最初期バージョンが出てきました。変わりっぷりにめちゃくちゃ笑った(痒いです)ので、供養に置いておきます。
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あ、と声が出た。
耳元でちゃぷりと水のゆれる音がする。続いて引っ張られる感じ。ぬるい水の底へ、僕は逆さまにゆるゆると落ちていく。
始まりはいつもこうだ。もう何回目かも忘れた。
暗い水のトンネルを抜けて彼方の光へ。ぬるい水に肺の中まで充たされてるのに、不思議と息は苦しくない。
まもなくその光も抜けて、僕の目は突然世界を捕らえ出す。世界と、それから、僕にそっくりな〈彼〉の姿を。
『治史(はるふみ)』
僕は〈彼〉を呼ぶ、鏡の内から。僕のたましいの半分、僕の〈治史〉を。
「季史(ときふみ)」
〈彼〉が僕を呼ぶ。こわばった顔をほどいて、うれしそうに、なにより安堵したと声ににじませて。
『うん、僕だよ、治史』
「来てくれた、季史」
『うん。……うん、治史。大丈夫?』
僕らは鏡越し、そっと手のひらを合わせる。そうしてひとり分の体温だけで鏡を温める。いく度も繰り返してきたように、今度も。大切な大切な儀式みたいに。
「季史、お願い。また力を貸して」
治史の視線が僕にすがりつく。
「怖いんだ、季史。僕はまた、銀谷の家を背負わなくちゃならないから……」
どうか、うまくやれるように。ひとりで、さみしすぎて壊れてしまわないように。
「そばに、いて……」
僕はうなずき、手を伸ばして彼を抱きしめる。彼がちゃんと〈銀谷の治史〉になれるように。
そうして僕らは生まれ落ちる。〈治史〉と〈季史〉――ひとつ鞘の豆の粒。互いに互いを映す鏡の存在に。
そうして〈治史〉は忘れる。僕とした約束の全てを。
耳元でゆれる水は羊水。あるいは、流せないまま海になった涙。
ね。おかしいね。絶望すると、涙って出ないものなんだ。
僕は繰り返す。もう一度と繰り返す。いつか僕が選ばれて、この影の中から出ていけるまで、きっと何度も、何度だって繰り返し続けるんだ。