はなして、はなして、はなさないで。わたしを、はなさないで。
丸毛鈴
世界の終りの、復讐と贖罪
悲鳴ともいえぬ悲鳴と、肉を噛む音、人でなくなった者のうめき。それらを背にしてわたしは走る。やっとあの地獄のような家から逃げ出せたのは、この阿鼻叫喚の地獄絵図のおかげだと思うと皮肉だった。
さっき噛まれた……というか食いちぎられた小指の先が痛む。Tシャツを裂いて巻き付けたものの、血がしたたっている。わたしが「あれ」になり、人を襲い出す時も近い。せっかく「あれ」になるのなら……。わたしは口もとに笑みを浮かべる。それまでに、なんとしてもあそこにたどり着かねば。
「たすけて。た、す、け、て」
走りながら発音を確認する。だいじょうぶ。わたしはまだ、人としてしゃべることができる。意識だってはっきりしている。これをあとすこし、あとすこしだけ保つことができれば。
中央通りではバスが横転して燃え盛り、そこに乗用車が三台玉突き状態になっていた。やつらはそこにたかっている。それを目くらましに、わたしは走る。
たどりついたのは、堅牢な印象を与える四階建ての建物だ。しかし、いまは即席のバリケードにさえぎられ、エントランス上部にかかげられた「四津山警察署」の名だけが見える。恨みを込めて見上げると、その名がかすんだ。時間はあまり残されていない。
わたしはバリケードに走り寄ると、上部からわずかに顔を出して警戒に当たっていた警察官に向かって叫ぶ。
「助けて、助けて……!」
二十代ぐらいだろうか。男性警官は、めんくらった顔をした。
「どうやってここまで……あんた、人間なのか」
「に、人間です。助けて」
「噛まれていない保証は」
「ちゃんとまだ、しゃべれます!」
「その指……」
「これは家で料理をしていて……。お願い、早く中に」
「しかし……」
「お願い……」
わたしはバリケードにすがりついて見せる。
「警察は、守ってくれるものじゃないの?」
そのとき、もうひとり、婦警が顔をのぞかせた。年の頃は四十手前。先ほどの男性より立場が上なことが見てとれた。婦警はわたしと目をあわせると、即座に言った。
「カトウくん、入れてあげましょう」
「アズマさん、しかし……」
「取調室、空いているでしょう。あそこにわたしが彼女と入ります。施錠して、二時間して何もなかったら、開ける。それで問題ないでしょう」
婦警はわたしの背後を見て目を見開くと、「早く!」と、バリケードの端を指して誘導した。工事現場によくある、パーティションをつなげたような囲い。その一枚についていた扉が開かれた。わたしが入り、扉が閉められると同時に、すさまじいうなり声とともにドスンドスンと音がしてバリケードが揺さぶられる。奴らがぶつかっているのだろう。台に乗った男性警官が、慣れない手つきで銃を持ち、発砲音が響く。
「アズマさん! 危険すぎます」
男性警官が銃を手にしたままとがめるが、婦警はゆるがない。
「こうすれば安心でしょう」
ごめんね、と小声で謝って、婦警はわたしの手首に手錠をかけた。
「取調室にいったら外すから」
電気が落ちて薄暗い署内の、一階エントランスでは、何人かが身を寄せ合っていた。幼い子を連れた家族連れ、作業着の男性、スーツ姿の男性三人組。避難してきたのか、たまたま署内にいて取り残されたのかわからない。巻き込むのは申し訳ないけれど、しかたない、と思う。どういうわけか、警官の数が少ない。出動しているうちに、このパニックが悪化したのか。多かれ少なかれ、こんなところに籠城していたって助からない。彼らだってすぐに生ける屍になるのだ。
入ってすぐ正面にある「総合窓口」の掲示を見た瞬間、あの日の苦い思い出がよみがえった。わたしが駆け込んで、必死に「助けて」と告げたとき、年老いた警官はひどくめんどくさそうに「は?」と言った。
エントランス中央にある用紙記入台によりかかって眠っていた警官を、婦警がつついて起こした。
「ニシくん、仮眠中悪いんだけど。わたしがこの子と入ったら、取調室の鍵をかけてほしい」
「あっ、え、はい……」
寝ぼけた警官はわけがわからないままにうなずき、ついてくる。
「あとすこしだから。そうしたら、手錠、外してあげる」
婦警は穏やかな声でわたしに告げた。総合窓口から右手に行ったところにある、エントランスよりさらに薄暗い階段。そこで婦警は「ちょっと待っていて」とどこかへ姿を消した。
――父さんが鶏で暗くてここはアアア花園ですオオオオ小指小指のケトルの紫にんじん学校で車が許さない。
そのわずかな間にも、頭の中にモザイクがかかり、意味をなさない思考が流れる。
婦警はちいさな箱を手に戻ると、「四階まで、がんばれる?」と尋ねた。わたしはなるべく平気なふりをしてうなずく。
内部に入ったのだから、もういいのかもしれない。でも、もうすこし。取調室に行けば手錠が外されるのだ。そのほうが、めちゃくちゃにできる。どうせなら、この婦警から婦警を、首、首筋、首、白い、肌、どうしてそんなに、はちみつ色に光って噛み、噛み、噛みちりぎりたい……。
思考の乱れを抑えながら、四階へと上がる。廊下の奥にある取調室に導かれ、入ると外から鍵が閉められた。
「ニシ君、戻っていいよ。二時間後に開けに来て」
婦警が告げると、仮眠の警官が去っていく気配がする。
横向きに鉄柵がかけられた窓から、白い光が差し込んで、そこに無機質なデスクとパイプ椅子が二脚。わたしは扉側の椅子に、すすめられるままに腰をかける。婦警は「ごめんね」と手錠を外すと膝立ちになり、「手を見せて」と言った。差し出したわたしの手の甲には、毒々しい青紫色の静脈が浮かんでいる。婦警はそれについて言及しなかった。ただ、小指に巻きつけられた布切れを取り、顔をしかめる。
「痛かったでしょう」
あきらかに食いちぎられたあと。それを見て、この人は何も思わないのだろうか。
「しみるから、がまんして」
婦警が階段を昇る前に持ちだしたのは、救急箱だったらしい。箱から消毒液を出して、小指にかけた。まったく痛みがない。それなのにこの人は手当なんてして……急に笑いがこみあげてきて、わたしは種明かしをする。
「噛まれたんです、わたし」
婦警が顔を上げたが、そこにはなんの表情も浮かんでいなかった。
「知ってる」
――飴肉雨はちみつ色噛みたい噛みつくしたい死体父さん死体痛い花ああ夜になったら月星きれい。
思考が乱れて、聞き間違えたのかと思った。
「は?」
「知ってる」
婦警は救急箱からガーゼを取り出し、小指に巻いた。次は包帯を手に取る。わたしはたまらず手を引き離した。小指から、血に染まったガーゼが落ちて、床でしめった音をたてた。
「なんで……じゃあなんで治療なんてするの?」
「ケガをしているから」
「手錠、なんで外したの。わたし、あなたを噛む、噛む、噛むよ」
そのことばを口にするだけで、唾液が口にわいて、したたった。それでも婦警は表情を変えない。
「手、かして」
婦警はわたしの手を取り、落ちたガーゼのかわりに新しいガーゼを切って傷口に置き、包帯を巻き始めた。
「なんれ、いましゃら、助けるろ」
ろれつが回らなくなっている。
「あなたたち、わ、わらしを助けなかった。わらし、まえ、ここに来た。ひどいことされていたら。警察なのに。『お父さんと話し合いな』って家に帰すた。ケガないろって。あの日からずっとわらし、は、外に出られない」
「知ってる。そのあとのことは、いまはじめて知ったけど」
婦警はそれだけ答えると、治療をつづけようとした。わたしはその行為を怖い、と感じる。
「やめっ」
わたしはふたたび手を引いた。
「だららわらし、めちゃくちゃに、ここなんかめちゃくちゃにすゆ。あんた噛む、噛んで。あんただけらじゃないみんな」
興奮したら、口からシャーッっという息が漏れた。興奮した動物がたてるようなその音は、とても自分が出したものとは思えなかった。
婦警はすこしだけ眉を寄せて悲し気な顔をし、わたしの手を強引に引いて、包帯を巻き始めた。
「わたしはあのとき、少年係にいたから。さっき顔を見て、すぐにあなただってわかった」
婦警は包帯を巻き終えると、サージカルテープを取り出して、それを止める。
「ずっと後悔していた。上司に言っても、たいした事件じゃないって言われて」
婦警は治療を終えたわたしの手を取り、わたしの目をまっすぐに見た。
「ごめんなさい」
黄色く濁った視界のなかで、その人の瞳に何かが揺れて光っているのが見えた。その人はわたしを抱き寄せた。
「ごめんなさい。だから、今度は、見捨てない」
「やめ、やめ、はな、せ」
わたしは振りほどこうとした。そんなことをしたら、首筋が、近、近、はちみつ色に光っていいにおい、噛み、噛んで、噛みたい。
「はなさない」
「やめ、やめ。なんで、いまさら」
「ごめんなさい」
声が、揺れている。その人のからだはあたたかかった。あたたかくて、血が通っている。肉がある。あたたかい、あたたかい、安心できる。なんで、いまさら。なんで、あのときじゃなくて。
その人は強く強くわたしを抱きしめてはなさない。わたしはその人のからだに、手を回す。あたたかい、ずっとこうされたかった。だれかに助けてほしくて、あたたかい、あたたかい、首が、近くに。噛みたい、噛みたい、噛みたい。いやだ、このひとを、やめて、いやだ、なんで、なんでいまさら。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
すすり泣きとともに、そのひとは繰り返す。
いやだ、いやだ、いやだ。なんで、なんで、なんでいまさら。首筋から甘いにおい、いやだ、いやだ、いやだ。はなして、はなして、はなさないで。わたしを、はなさないで。わたしの口が獲物を求め、大きく開く。
わたしの瞳から、最後の涙が流れ落ちた。
はなして、はなして、はなさないで。わたしを、はなさないで。 丸毛鈴 @suzu_maruke
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