第9話 いつもの風景

 

 夕方。喫茶店の扉を開く莉乃を迎えるのはいつもの風景。


 カウンター向こうのマスターは紅茶カップを拭き上げ、パティシエはマスターの横で試作品と思われるケーキを並べ、莉乃はいつもの足音に笑顔を浮かべる。


「いらっしゃい莉乃ちゃん!」


 両手を広げて待つウエイターの腕の中に飛び込む。顔を上げればウエイターの耳にはリング上のシルバーに青い色石のついたピアスがある。


「似合ってますね、ピアス」


 似合っていてよかった。そんな意図も込めて笑いかけると満面の笑みを浮かべてウエイターは莉乃を抱きしめ返す。


「莉乃ちゃんもね!」


 見下ろす髪の短くなった姿。耳にかかる髪の下には小さな桜色の華と下に連なる雫。もう片方の髪に隠れた耳にはきっと雫がないだけの桜色の華。お互いに買い贈った装飾はキラキラと綺麗に喫茶店の照明を照らし返す。


 カウンターから少し離れたテーブル席に座ればマスターが紅茶と普段喫茶店に並ばない煮りんごのタルトを並べた。美味しそう。莉乃の素直な大きな声にカウンターの向こうでパティシエが笑う。食べる前から幸せそうで嬉しい。パティシエがそう言うとカウンター席に座る猫背気味の男が皆楽しそうだねえと自分の席に並べられたケーキをつつく。良いことですよ。マスターは男の飲み終えたカップを回収する。


 目の前のカウンターで現れ拭き上げられるカップを眺め、男はふとそういえば、とカウンター向こうへ話しかける。


「この前莉乃さんが客引きに遭ってたじゃん」


「ああ、そうですね。そんなこともありましたね」


 少し視線を上げればあれだけ怖がっていた莉乃はテーブル席で楽しげにウエイターと話している。


「俺、あの店を個人的に見に行こうとしたんだよ。そしたらさ、なくなってたんだ」


「おや、そうなのですか」


 拭き上げたカップを棚に戻す。普段と何一つ変わらないマスター。


「経営不振らしいけど、マスター何か知らない?」


 正直を言えば経営不振になりそうなのはこの喫茶店な気がするくらいなんだけど。冗談を交え、笑いかければカウンターの向こう側から静かに笑い返される。


「さあ。私は何も」


 この言葉が嘘か真か。職業柄嘘を見慣れている男はため息を吐いた。マスターが嘘を吐いていたとしても、何処ぞのルール違反をした客引きを持つ店が何かに潰されたのだとしても。男には関係なくこの喫茶店が無くなるより悪いことには到底思えない。


 今日はこれで帰る。紅茶とケーキの代金を支払い店を出ていく姿に莉乃が慌てて前はありがとうございました、と声をかける。振り返ればとても嬉しそうに笑う髪の短くなった女が手を振っている。


 また。そう言って小さく手を振り返す。


 あんなおっさんにお礼なんて言わなくていいのに。拗ねたウエイターと莉乃は再び談笑に戻り。


 変わらない喫茶店の風景がそこにあった。


 

 ケーキを出し終わり空になったトレイを片手にじい、とパティシエはマスターを見る。


「どうしました?」


 普段ない視線に問いかけると珍しくパティシエは小さくため息を吐く。


「やりすぎ、良くない」


 何に対してかは言わずパティシエはしばらくマスターと、その先にある先程男が出て行った扉を見つめていた。


「何のことでしょうね、私はただこのお店の店主なだけですよ」


 パティシエにも先ほど男に向けたような笑みを向ける。パティシエは再び短くため息を吐くと美味しそうにケーキを頬張る莉乃を最後に視界に収め、裏口へと向かう。


 自分はただ自分のために作ったこの店の店主でしかない。


 だから。


「私に出来るのはこのお店と数少ないお客様を守ることだけです」


 美味しかった。元気で素直な大きな声にマスターは追加の紅茶の準備を始めた。

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