月の天女〜神の血を継ぐ者〜

入江 涼子

第1話

   月には天女がいるという。そんな伝説が昔にあったーー。


  わたくしは子供の頃に母から天女の伝説を聞かされた事がある。大昔に月から天女がやってきてある男と恋仲になった。

  その男と結婚して二人の子供にも恵まれた。が、天女には羽衣があった。彼女は良き妻として家の事や子育てをきちんとこなしている。それでも男は不安だったらしい。天女が月に帰ってしまわないかと。

  そして男は天女の羽衣を隠してしまう。彼女に知られないような家の中でも奥まった場所にだ。そうして十数年の時は流れた。

  天女は子供が大きくなっても若々しく男と出会った時と変わらない。余計に男は不安に駆られる。だが、ある時に子供が不思議な調べの歌を歌う。それを聞いた天女はとうとう隠された羽衣の場所を知る。

 

  天女は天井裏に羽衣が隠されているのを見つけた。そしてそれを身に纏うと月に帰って行ってしまったーー。


  そんな伝説がわたくしの一族には伝わっている。わたくしは天女の一族でその中でも血が濃いらしい。そのせいか不思議な力が幼い頃からそなわっていた。

  例えば、千里眼であったりあやかしが見えたりなどだ。念力もその内の異能の一つだが。母が念力にけていた。わたくしはそれほどではない。

  そして年月が流れ、わたくしも二十になっていたーー。


「……沙月さつき様。もう二十になられましたね」


  そう言ってきたのはわたくしの侍女の美雨みうだ。同じ一族でいとこになる。彼女の母親がわたくしの母とは姉妹だった。

  美雨は今年で十九になる。明るい性格で親しみやすい。


「そうね。わたくしも二十か。早いわね」


「わたしも十九ですからね。姫様のおっしゃる通りです」


  美雨はからからと笑いながら言う。わたくしもつられて笑った。


「……美雨。それはそうと。うらをしないとね。外へ出るわ」


「わかりました。では少々お待ちください」


  美雨は頷くと立ち上がった。引き戸を開けに向かう。今の季節は初夏だが夜は冷え込む。わたくしは上着を取りに奥へ入ったのだった。



  その後、星見ーー占をするために庭に出た。の星などの位置を確認する。色々と星を見ては明日の吉凶を占う。


「……明日は朝から雨が降るようね。後、都の高貴な方に病が起こるかしら」


  一人で呟きつつも占を終えた。りんと頭の中で鈴の音が聞こえる。千里眼を使えという一族の守り神様の合図のようだ。

  ふうとため息をつくと集中を始めた。四方を確かめてから額に ピリリと弱い雷のような刺激を感じたのでその方向に体ごと向く。

  すると頭の中に何かの姿が浮かび上がる。それは一羽の白い鳥だった。が、何かがおかしい事に気付いた。この鳥は生きたものではない。もしやと思う。るのを続けていたらパタパタと足音が庭に響いた。千里眼を使うのをやめて足音がした方に顔を向けた。


「……姫様!大変です!」


  大声でこちらに駆け寄ってきたのは侍女の美雨だった。表情は緊張したものだ。


「……美雨。どうかしたの?」


「それが。この揖屋いやの一族の国内くにうちに陰陽師が放った式神が入り込んだと知らせがありました!」


「そう。式神が。わかったわ、すぐに兄上にお知らせして」


「わかりました」


「……兄上がこちらにいらしたら一緒に式神を消すわ。あれは揖屋と敵対する宇久うくの一族の放ったものだから」


  それを聞いた美雨はさらに緊張した表情になる。


「宇久の一族のものですか。それはまずいですね。行ってまいります」


「うん。急いでちょうだい」


  美雨はお辞儀をすると庭を走って行った。わたくしはそれを見送ると千里眼を再び使った。昔ーー二百年程前から天女の一族である我が揖屋と陰陽師の一族である宇久とは対立していた。何故かというと揖屋の一族は異形のものであるからだ。

  はっきり言ってしまえば、この国では神と人の混血であると言えた。月の天女も本来は仙女とも呼ばれていて女神と同等の存在である。が、揖屋の一族は闇と近い月属性の力を持ち、妖しを引き寄せやすかった。そのせいで宇久の一族は揖屋の一族を嫌っていたのだ。事あるたびに揖屋の一族を滅ぼそうと機会を伺っていた。

  今の宇久の当主である海里かいり殿は正義感が強く闇のものを特に嫌っている。おかげでわたくしと兄の悠璃ゆうりは海里殿を警戒する日々を送っていた。


「……沙月。海里がまた式神を送ってきたか。あやつもしつこいな」


  低い声が聞こえて振り向くと二十を五つ程越した男性がわたくしに近づいてきた。黒い髪と瞳で藍色の着物を着た男性は兄の悠璃だ。


「ええ。本当に。どうしましょうか?」


「放っておけと言いたいが。仕方ない、式神を消すぞ」


  兄はため息をつくとわたくしのすぐ側にまで来る。そうして目を閉じた。わたくしも同じようにして集中する。


「……月の女神よ。今、我は請う。かの者を消し給え」


  月の女神ーー祖先に当たる天女に力を求めた。我が一族は月の天女を女神と崇めている。何かあった時は天女に力を請うていた。

  そして目を開けると視認できる所に白い鳥ーー式神がいた。パタパタともがき苦しんでいる。わたくしと兄は空中で式神を掴む真似をした。ぎゅっと手を握りこんだ。余計に式神は暴れて苦しそうだった。けど二人でぱっと握りこんでいた手を広げると式神は真っ白い羽根を残して消失してしまう。


「ふう。式神は消えたか。沙月、お主も手加減せぬな」


「兄上こそ。とりあえず、今日は何とかなりましたね」


「そうだな」


  わたくしが言うと兄も頷いた。今日はまだいい方だ。いつもであれば、式神でも犬や虎の姿の凶暴なものを送り込まれた事もある。その時はさすがにわたくしと兄だけでは対処しきれず、一族の男達総出で退治したものだ。わたくしは兄に中に入ると言ってからその場を離れた。



「沙月様。ご無事でようございました」


  ほっとした顔で美雨が声をかけてきた。わたくしは微笑みかけた。


「ええ。心配をかけたわね」


「はい。姫様が怪我をなさらないか心配で」


「美雨。兄上もいたのだから大丈夫よ。わたくしも武術の心得があるのだし」


  それでもですと美雨は真剣な面持ちで言う。よほど心配らしい。


「……姫様。我が一族であなたは千里眼も念力もこなす数少ないお方です。稀有な御身である事を忘れないでください」


「美雨。わたくしは偶然、天女の血を受け継いだ身であって。稀有だなんて。そんな事はないわ」


  美雨が呆れたと言わんばかりに深いため息をついた。


「何をおっしゃいますか。自覚はないのは昔からの事ですが。もう大人になっているのですから少しはご自分の身を考えてくださいませ」


「……わかったわ」


  仕方なく頷いた。やっと美雨は笑う。


「では、姫様。お腹が空いたでしょうから。お食事を持ってきますね」


「そうしてちょうだい。確かにお腹が空いたわね」


「ふふ。そうでしょうね。行ってきます」


  美雨はそう言うとわたくしの部屋を出ていく。それを見送ったのだった。


 

  朝餉を美雨が持ってきてわたくしは食べる事にした。今日は水漬けのご飯と山菜の汁物、大根おおねのお漬物、鮎の塩焼きだ。いつもより豪勢だなと思う。

  それでもお箸を取って食べ始めた。山菜の汁物がじんわりと体に染み込む。鮎の塩焼きも美味である。大根のお漬物でご飯を口に運んだ。その間、美雨はおかわりがないかと待ち構えている。わたくしはゆっくりと食事を進めた。

  小半刻もすると全部食べてしまっていた。これには自分でも驚く。よほど、体力を使っていたらしい。


「……姫様。今日は全部召し上がりましたね」


  美雨も驚いているらしい。それはそうだろう。わたくしは出された食事を少し残す事が多い。そんな自分が全部残らずに完食したのだ。珍しい事この上ない。


「本当ね。美雨、汁物をおかわりしたいの。入れてちょうだい」


「わかりました。でもお食事を全部召し上がるのは良い事です」


  嬉しそうに美雨は汁物の入っていた木のお椀を受け取った。おたまじゃくしで汁物を再び入れる。わたくしはそれを受け取りまた口に運んだ。やっぱり山菜の汁物はあっさりとしていて美味しい。ほうと息をつきながら汁物を全部飲んだ。もう、満腹で美雨にも言った。

  美雨はお膳を持って部屋を出て行った。わたくしはちょっと食べ過ぎたかなと思うのだった。

 


  その後、お昼になりわたくしは少し休憩を取っていた。

  ほうと息をつく。夜中に千里眼と念力を両方使うと気力と体力の消耗が激しい。それだけ体にも精神にも負担がかかっているという事だが。しとねの上に寝転がり目を閉じた。

  美雨は今いない。わたくしが一人だけだ。ふと海里殿の事を思い出す。彼は今こそ敵対している。だが、幼い頃は兄と三人で遊んでいた程の仲だった。何故かというと海里殿はまだ当時はわたくしや他の揖屋の一族の業というか本性を知らなかったからだ。元服してから先代の当主殿に初めて聞かされたと確か本人が言っていた。祝いの宴の席でだったか。

  そうして海里殿はその内にわたくしや揖屋の現在の当主になった兄を一番に毛嫌いするようになった。わたくしがまだ八歳くらいの時の事で今から十二年も前になる。

  しくりと胸が傷む。海里殿の事をわたくしは嫌っていない。だが彼が手出しをしてくる以上、放置はできなかった。一族と揖屋の国を守る為には致し方ないと思うしかなかった。それでもできれば、海里殿とは和解したい。わたくしに出来る事があれば、尽力したいと思っていた。


「……姫様。お休みのところ申し訳ありませんが。ちょっといいですか?」


  一人で考え事をしていたら美雨が声をかけてきた。意識が浮上する。わたくしは目を開けた。


「どうかしたの。美雨」


「はい。実はお館様が姫様をお呼びです。お話したい事があるとかで」


「……兄上がね。わかったわ。ちょっとお待ちくださいとお伝えして」


「わかりました。では一旦失礼します」


「ええ。お願いね」


  美雨はそう言って兄の元に向かった。話とは何だろうかと思う。


  しばらくして美雨が戻ってきた。わたくしは寝乱れた着物や帯を直し、鏡を見て髪も手櫛で直していた。


「……姫様。お館様には少々お待ちくださいと伝えました。もうよろしいですか?」


「そうねえ。後はお化粧を直したいの。美雨、やってくれるかしら」


「わかりました」


  鏡の前に改めて座る。美雨は化粧道具が入った漆塗りの箱を棚から出す。そして白粉や口紅などを取り出すとわたくしの前に膝立ちになる。手早く眉毛を描いたり目元に紅をさしたりしてお化粧を美雨は直していく。みるみるうちにお化粧直しはできた。


「……いつもながら手際がいいわね」


「……褒めても何も出ませんよ」


  美雨はつんとすまして言う。それが他の人には生意気なと映るかもしれないが。わたくしには照れているのだとわかる。


「美雨。準備はできたから今から行くとお伝えして」


「わかりました」


  美雨はもう一度、兄の元に向かった。悪いと思うが致し方ない。そう思っていたらすぐに美雨が戻ってきた。走ってきたのか息を切らしている。


「……姫様。お館様が早く来てほしいとのお言葉です。急ぎの用だとかで」


「え。そうなの。急いで行くわ」


  そう言って小走りで向かう。美雨も後ろから付いてきた。わたくしはいくつかの廊下を渡って兄の執務用の部屋まで来た。部屋の障子戸の前に正座で兄のお付きの従者が控えている。その従者に声をかけた。


「……飛丸とびまる。兄上がわたくしにお話があると聞いて来たのだけど」


「あ。これは姫様。はい、悠璃様がお待ちかねです。どうぞお入りください」


「わかったわ。いつもご苦労な事ね」


「労いの言葉をありがとうございます。わたしめの事はお気になさらず。さ、奥へどうぞ」


「ありがとう」


  そう言って部屋の中に入る。障子戸を開けると墨の独特な香りがした。兄が書類を作成しているらしい。


「兄上。お話があるとの事で来ました。何かございましたか?」


「……ああ。沙月か。休憩していたのに呼び出して悪いな」


「いえ。気にしていません。それよりお話というのは……」


「そうだ。お主に話というのは。縁談が来たんだ。それを知らせたくてこちらへ呼んだんだ」


「……縁談ですか?」


  わたくしは驚いて二の句が出ない。兄は憂鬱そうにため息をついた。


「ああ、そうだ。相手は隣の国の宇久の一族の当主だ。あの海里だが。今頃になって言ってくるとはな。何を考えているのやら」


「はあ。でも海里殿には許嫁(いいなずけ)の方がおられたはずです。なのに何故でしょう」


「……それが。海里が寄越した文には許嫁の娘を追放したとある。その娘、よりにもよって海里の母親を呪っていたという。

 それで仕方なく婚約を解消したようだな」


  呪いと聞いて余計に驚いてしまう。だが海里殿の許嫁が追放されたとはいえ、何故わたくしに縁談の話が来るのかが解せない。それは兄も同じだったようでふむと唸った。


「沙月。海里は我が揖屋の一族と同盟を結びたいらしい。その証としてお主を嫁がせたらいいと考えたようだ」


「同盟ですか。要はわたくしは人質ですね」


「言い換えればそうなるな。宇久の一族は最近、北側の国の久貴(くき)の一族と小競り合いをしょっちゅうしていると聞いた。もう本格的な戦になってもおかしくない。そこで異能を持つ我らを取り込もうと考えたようだ」


  兄の言葉に成る程と納得した。いきなり縁談を持ちかけてきたのは戦に揖屋の一族の異能ーー天女の末裔の力を使いたいがためだ。わたくしは心が冷たく凍っていくのがわかった。もう、あの明るく気さくな海里殿はいない。悲しさで泣きそうになったのだった。


  それから、とんとん拍子に縁談は進み、わたくしは海里殿と婚約を正式にした。半年後には結婚する手筈だ。まあ、結婚するまでは直接会うわけにもいかないので文でやりとりしていた。

  意外と海里殿は筆まめで二日に一度は必ず文を送ってくる。冷えきった心持ちでいたのにこれには揺らいでしまう。文には時候の挨拶から始まり宇久の国の様子やいつものちょっとした事などが細やかに綴られていてそれは毎度の事になっていた。

  もう、季節は本格的な夏で揖屋の国も暑い日々が続いている。

  蒸し暑くてわたくしは軽い夏ばてになっていた。両親が既にいないので兄が何かと心配して美雨や従者の飛丸に言って薬などを用意してくれる。もう海里殿と婚約して三月が経過していたが。

  今日も美雨はわたくしに食べやすい削り氷を持ってきていた。


「沙月様。削り氷だったら喉を通りやすいだろうと思って。召し上がってみてください」


「……そう。あ、木苺もあるのね。食べるわ」


  褥から起き上がり削り氷と木苺が盛り付けられた白磁の皿を受け取った。木匙で氷をすくいながら口に運んだ。ほんのりと甘葛あまずらの汁の味がして喉越しもひんやりして美味しい。


「本当ね。削り氷は高価な物なのに。兄上ったら奮発したわね」


「そうですね。でも姫様のお口に合ったようで良かったです」


「うん。ありがとうと兄上に後で伝えてちょうだい」


  わかりましたと美雨は答えた。わたくしは削り氷を再び食べたのだった。


  あれから、時間はあっという間に経ち、半年が過ぎた。婚約期間は終わりを告げ、とうとう婚姻の儀が行われる日が近くなっていた。今日、わたくしは宇久の国へ旅立つ。

  朝方に美雨や他の侍女の手によりお風呂に入らされ、全身を磨きあげられた。肌に薔薇水を塗りこまれて髪には柑橘系の香油を塗り、櫛で気が遠くなるほどに梳かれる。おかげで一刻が経つ頃にはぐったりとなっていた。


  そしてやっと花嫁衣装である白の小袖に同じく白の打ち掛けを着付けられた。帯も真っ白だ。ただ、白と言っても光沢があり極上の品だとわかる。着付けが終わると髪を結い上げて簪を挿し生花で飾った。最後にお化粧も念入りにしてやっと身支度は完了だ。


「……姫様。お美しゅうございます」


  美雨が感嘆の息をつきながら言う。わたくしは照れと恥ずかしさではにかむような表情しかできない。


「……ありがとう。でも馬子にも衣装というし。わたくしには似合わないわ。美しいなんて言葉は」


「そんなことはありません。花嫁衣装が本当によくお似合いです」


  わたくしが謙遜の言葉を言うと美雨はきっぱりと否定してきた。


「姫様は自覚がなさ過ぎなんです。異能といい、お顔立ちといい。もっと自信を持ってもいいんですよ」


「そうね。そうするわ」


  二人で話していたら兄と飛丸がやってきた。


「……沙月。何をしているんだ。もう出立の刻限がきているぞ」


  兄が言ってきてやっとわたくしはもうそんなに時間が経っていたのかと気づく。


「兄上。すみません。わたくし、もう駕籠かごに乗ります」


「その方がいい。急いでくれ」


  兄に言われてわたくしは裾をからげて駕籠が待つ門の前に急いだ。美雨や飛丸も付いてくる。兄も後でやってきた。

  わたくしは駕籠の近くにいた従者や侍女の手を借りて中に入った。乗り込むと浮く感覚がして駕籠の持ち手を従者が持ったのだとわかる。覗き窓を開けて見送りに来てくれた兄や同じ一族の者達に手を振った。


「沙月。宇久の国に行っても達者でな」


「はい。兄上もお元気で!」


  大きな声で言うと兄や一族の者達が泣き笑いの表情で別れを告げた。そうしてわたくしは宇久の国に旅立ったのだった。

 


  半日かけて宇久の国に着いた。揖屋の国と違い、こちらは高山地帯ーー高原になるのでもう雪が降っていた。晩秋だというのに冬同然だ。

  付き従っていた従者達は帰して美雨と四人の侍女、わたくしだけが残った。宇久の国の人々はわたくし達を歓迎しているわけではない。むしろ、迷惑に思っているだろう。そんな気持ちが千里眼を使えば、伝わってくる。

  美雨も他の侍女達も不安そうだ。わたくしはしっかりしなければと思った。


「……揖屋の姫様。お館様、海里様がお越しになります。よろしいですか?」


  不意に部屋の障子戸が開けられて年老いた老婆が知らせにやってきた。


「あ、はい。海里様が来られるのですね。美雨、座布団の用意を頼むわ」


  揖屋の国では円座わろうだという藁を編んで作った敷物を使っていたが。宇久の国では布と綿を使って作られた座布団が主流だ。


「わかりました」


  そう言って美雨が手早く座布団を敷いたり他の侍女達に目配せして退がらせたりとてきぱき動く。老婆も伝えるべき事は伝えたと言わんばかりに早々と退がって行った。


  少しして海里殿がやってきた。青みがかった黒髪に琥珀色の瞳が印象的な背の高い美男だ。久しぶりに会うがその顔は不機嫌そうだった。


「……よく来たな。揖屋の姫」


「はい。揖屋から参りました。沙月と申します」


「名は知っている。だが、お前と馴れ合うつもりはない。覚えておけ」


  いきなり言われてわたくしはまたがっくりとなった。まあ、あちらからは完璧に嫌われているのだから仕方ないだろうが。それでも再会したのにこれはないだろうと思ってしまう。


「……宇久の当主殿。わたくしは確かに異形ではありましょうが。それでも心というものがあります。先ほどの物言いはさすがにどうかと思います」


「ふん。お前や兄の悠璃は自身の事を俺に一切話さなかったではないか。異形は異形。それに変わりはないだろうが」


  わたくしは昔とはあまりに違う豹変ぶりに唖然としてしまう。

  そして怒りがふつふつと沸いてきた。気がつくと海里殿の頬を平手打ちしていた。ぱしんと乾いた音が鳴った。


「……何をする。お前、何様のつもりだ!」


  わたくしは海里殿を睨みつけた。


「それはこっちの台詞よ!下手に出ればつけあがって。あんたと結婚なんて真っ平ご免よ!」


「な。お前はあくまで人質だ。こんな暴挙をするんだったらただじゃおかないからな!」


  海里殿はそう言ってわたくしの腕を掴んだ。あまりの力の強さに顔をしかめる。


「ふん。所詮は異能持ちとはいえ女だ。おとなしく言う事を聞け」


「……嫌よ。わたくしにも矜持というものがあるわ。あんたとこっちだって馴れ合うつもりはないんだから」


「口だけは達者だな。おい、お前ら。この女を地下牢に閉じ込めておけ」


  海里殿は冷たくそう告げると部屋を立ち去って行った。わたくしは彼に付いていた従者二人に押さえつけられてそのまま地下牢へと引き摺られていった。誰も助けてなどくれなかったーー。


  地下牢に閉じ込められた後、誰かが訪ねる事は一切なかった。

  わたくしは薄暗い中で蝋燭の灯りだけを頼りに二日間を過ごした。食事が出されはしたが。粗末なお粥と汁物しかない。それでも死んではなるものかと我慢して食べた。

  それでも三日も経つと何かしらの動きがあったようだ。何と衛兵とおぼしき男と共に美雨がやってきた。手燭と着替えを持って地下牢の格子に近づいてきたのがわかった。


「……姫様。わたしがわかりますか?!」


「……もしかして。美雨なの?」


  久しぶりに出した声は掠れていた。異能を封じ込める結界が厳重に張られていて千里眼や念力が全く使えなかった。それでも美雨が来てくれたのは嬉しくて泣いてしまう。


「そうです。実はわたしがこっそり悠璃様に文を出してお知らせしておいたんです。そしたら悠璃様が海里様の元を直接訪ねていらして。悠璃様、激怒していましたよ」


「そうだったの。それで兄上はもう帰ったのかしら」


「いえ。まだこちらにいらっしゃいますよ。今、海里様を諭していたんです。そしたら悠璃様がわたしに宇久の衛兵と一緒に行けとおっしゃったんです」


「……なるほど。じゃあ、わたくしを助けに行けと兄上が言ってくれたのね」


「ええ。さあ、早く地下牢を出ましょう。鍵は預かっています」


  美雨はにこやかに言って鍵の束を懐から取り出した。手燭を衛兵に預けた。鍵の束の中から地下牢の物を見つけると南京錠の鍵穴に入れる。かちゃんと開く音がした。牢の扉が開いて美雨が中に入ってきた。


「……姫様。手間取ってしまって申し訳ありません。着替えをしましょう」


  美雨に促されて着ていた花嫁衣装を脱いだ。そして新しい着物に替えた。その間、衛兵は気を使って後ろを向いていたが。着替えが終わると地下牢から出ようとした。が、立ち上がりはしたもののうまく歩けない。美雨は肩を貸すと言ってきた。それに甘えてゆっくりと地下から出たのだった。



  地上に出ると入口近くに兄と飛丸の二人が待ち構えていた。

  わたくしの姿を見つけると兄はこちらに駆け寄ってくる。その表情は鬼気迫るものがあった。


「……沙月。無事だったか。地下牢に入れられたと聞いた時は生きた心地がしなかったぞ」


「すみません。兄上。心配をかけて」


「謝る必要はない。悪いのはお主を閉じ込めた海里の馬鹿の方だ」


  兄は怒りの形相で言う。それでもわたくしはわざわざ助けに来てくれた兄に感謝の意を表したくてよろけながらも彼の手を握った。兄は驚きながらも手を握り返してきた。


「沙月。どうする。もう揖屋の国に帰るか?」


「……いえ。兄上。わたくしはこちらに残ります。揖屋と宇久が同盟を結ぶためにはわたくしがこちらにいる必要があるのでしょう」


「……だが」


「わたくしはもう決めました。揖屋と宇久が和解できるなら。尽力すると」


「……そうか。お主が決めたのなら俺からは何も言わない。だが、沙月が危険な目にあうようなら問答無用で連れ帰るからな」


  わかりましたとわたくしは頷いた。こうしてわたくしは改めて宇久の国に居続ける事を決意したのだった。



  あれから三月が経ち、わたくしと海里殿はやっと婚姻の儀ができた。が、初夜は別々で休んだ。海里殿はまだ気まずいらしくてそれが要因らしかった。それでも驚く事に海里殿から後日にお詫びの文と贈り物が届いた。本人もわたくしの住まいとなった離れに来て改めて謝罪をしてくれた。

  わたくしは海里殿に揖屋の一族に手出しをしない事と利用しない事を条件に出した上で謝罪を受け入れた。彼もその条件を了承してくれる。こうして一連の騒動は終わりを迎えた。


  そうしてゆっくりと時はまた過ぎた。わたくしが宇久の国に嫁いでから二年が経過していた。一年前にやっと海里殿とわたくしは男女の仲になる。現在は初めての子供を身ごもっていた。

  たぶん、女の子が生まれるのではと思っている。久貴の一族との小競り合いは続いていた。だが兄が海里殿と協力したおかげで現在は収束しつつあった。わたくしは臨月に近づいていた。

  大きくなったお腹を撫でる。美雨や侍女達も微笑ましそうに見守っていた。わたくしは低い声で子守歌を歌うのだったーー。

  終わり

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