第2話

 どう登ったのか分からないが、ようやくたどり着いたそこは真っ白な空間だった。

 床も壁もあるのか分からないが、煙のようにぼやけている。確かに立っている感覚は足の裏に感じているのだが、触ろうとするとスカッと何も掴めなかった。

「雲みたいだな」

 今しがた上がってきたはずの穴もなくなり見える範囲での出口はなくなってしまった。

 ただ糸だけは呆れるほどしっかりと巻かれている。


『待ってましたよ心優しい(?)太郎さん』

 どこからか声が聞こえる。

 前後左右上下、どこを見ても声の主は見当たらない。

 それどころかどこから聞こえてきたのか、はたまた本当に聞こえたのかも判断つかない声に太郎落ち着きなくファイティングポーズを取った。

 こういう意味の分からない不意打ちに、どこからでも対応できるように、と日頃からしていた昔の癖のようなものだった。

『戦う気はありません』

 どうやら空気を振動させて聞こえてくる声ではないようだと判断した太郎は一層緊張感を強めた。

「なら何ですか? 昔から知らない人に下の名前を呼ばれたら警戒しろと教わっています」


 煙が小さな竜巻のように集まると小柄な人の姿に変化した。中性的な顔と声にやっぱり心当たりはなかった。

『今の状況はどのくらい理解していますか?』

「蜘蛛の糸」

 数瞬考えてから呟いた。

『はい? あー、はいはいはい。そかそか、芥川龍之介さんのね。もしかして知り合いだったりしました?』

「からかっているのですか」

 無意識に太郎の語気と眼力が強まる。

『あー違いますよ。そうだ、すり合わせしましょうか』

 太郎は黙って見つめる。

 もじもじと落ち着かない様子は道で出会う野良猫を連想させて不思議と悪い気は起きない。

『私は地球管轄の管理をしています。賃貸の管理人と考えてくれれば問題ありません』

 太郎は黙って見つめる。

 コスプレのような髪色、不思議と吸い込まれそうな深い色の瞳、全体的に透けているがそれでも磁器ような肌は触りたいと思ったのだろうか。

『えっと……太郎さんはお亡くなりになり、地獄で労働をしていましたよね?』

「ああ」

『そこで私は糸を垂らしました』

「それを伝ってここへ来た」

『ここまでは理解しているようで嬉しいです。順調に事が進みますから』

「……釣りですか?」

 ずっと小学生の頃に蜘蛛の糸と出会ってから思いつづけていた疑問が口をついて出た。

 なぜお釈迦様は糸をぶら下げるというやり方をしたのか。地獄にうじゃうじゃいた亡者を魚のように釣ろうとしたのではないか、と。

『それは誤解です。今回はたまたま状況が似ているだけで私はどんな手を使ってでも太郎さんを呼び寄せようと計画していましたから』

 えへん、と胸を張る姿を見ても何も感じない。

「ご用があるのならどうぞ」

 筋力をまるで感じない体つきを見て、太郎はその気になれば十秒もいらないと全身の力を抜いた。神だろうが外は固かったとしても中身は柔らかいことに変わりはないだろうと判断した結果だった。

 登場そのままに煙の集まりだとすればそれこそ戦うだけ無駄。


『太郎さん、異世界転生しませんか?』

「断る」

 脊髄反射よろしく太郎は即答した。

 太郎の想定していた提案とは多少違いはあったがそれでも答えは同じだった。

 管理人は笑顔のまま固まる。

 それはもうフリーズしたように。

 誰もが尻尾を振って了承すると心底疑わなかったのだろう。


 太郎は頭の銃創じゅうそうを掻き、体の底から空気を吐き出した。

 寒くもないのにそれは煙のように昇っていく。

 空とも天井とも思えぬそこへ溶けた。よく見れば曇天のように雲のような塊がゆったりと渦を描きながら流れている。


 糸はまだピンと張ったまま上に続いているのか目視では白に飲まれて分からなかった。けれど引っ張ればしっかりとした反動が返ってくる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蜘蛛の糸を登ったら 宿木 柊花 @ol4Sl4

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ