ハナ差ないでえ!

兵藤晴佳

第1話

 中部地方北部の急峻な山脈はいくつかの高原を擁しているが、中でも奥七辺町おくななべちょうは知る人ぞ知る草競馬の聖地である。白山に連なる高原を見上げる鹿目かのめ神社に古くから伝わる神事であった馬比べが発祥であったらしい。これが、近代に入ってからは避暑にやってきた裕福な華族豪商が地元の農家に出資して名馬を育てさせては速さを競うという道楽に変わり、現在は中心的な観光資源として町の財政を支えてきた。

だが、そんな鹿目草競馬も、時代の流れで知る人ぞ知る存在となり、町の隆盛にも翳りが見え始めているのが今日この頃である。

 さて、戦後のとある名馬のとある騎手に、こんな名言がある。

「大差でもハナ差でも勝ちは勝ち」

 誰の手かは分からないが、これが額となって鹿目草競馬協会の事務所に掲げてある。

 その下で、草競馬の開かれる5月の連休を控えたある日、密談の席が設けられていた。

「お断りいたします」

 大学を卒業して戻ってきてから何年か、草競馬で愛馬ロングホーンを駆ってきた粟田優あわたまさるは丁重に年代物のウィスキーのグラスを押し返した。

 いやいや、と再び杯を勧めたのは、鹿目草競馬のスポンサーを長年、務めてきたハイランド乳業の社長、大賀久平おおがきゅうへいである。

 草競馬での写真判定用に巨大なスクリーンを寄付したのも、この男である。

「プロの競馬ではありません。盛り上がればよいのです。これで参加者や観光客が増えれば、他に何を望むことがありますか? 赤字克服には、これしかありません」

 奥歯にものが挟まったような言い方に対して、粟田は、はっきりと聞き返した。

「僕がお嬢さんに負けなければ、来年からスポンサーを降りるという意味ですね?」

 遠回しな言い方ではあるが久平は、早い話が八百長を勧めているのだった。

 それでも、口には出さない。

「間もなく、娘が挨拶に参ります。事情は存じませんので、悪しからず」

 悠々と立ち去った後にやってきたのは、清楚な白いワンピースに身を包んだ少女だった。

「大賀奈々枝と申します」

 粟田が大賀乳業が地元で製造販売している濃い牛乳を使ったミルクティーを差し出すと、照れ臭そうに笑った。

「お笑いになるかもしれませんけど、お祖父さまの勧めで3つの頃から乗馬を初めて……高校でも部活で頑張って、これでも結構、走れるつもりです。出てみたいと言ったら、父が張り切ってしまって」

 粟田は、敢えて険しい顔をした。

「草には、草の誇りがあります。甘く見ないでください」

 奈々枝も、真剣な顔で見つめ返す。

「なぜ、私がここを選んだと思いますか? 馬を走らせることの大好きな人たちが、ただ、そのためだけに集まる、日本でも数少ない場所の一つだからです。それに……」

そこで、しばし見上げたのは、あの額だった。

「大差でもハナ差でも勝ちは勝ち」

 やがて、粟田に向き直ると楽しそうに微笑んだ。

「私の北斗号、速いんです。見てやってくださいね」

 立ち上がって粟田に一礼すると、高原の涼やかさをそのまま人の姿にしたような凛とした佇まいで、奈々枝は帰っていった。

 それを見送った粟田の前に現れたのは、幼馴染の加勢諒子(かせりょうこ)である。

「ま~さ~る~!」

 怒声を張り上げながら、 革のジャケットに膝の破れたジーパンというラフな格好で、事務所への坂道をずかずかと駆け上がってくる。

 中に乗り込んでくるなり、粟田の胸倉をつかみ上げる。

「おい、牛乳屋の娘に八百長で勝たすっちゅうんはホンマかい!」

「知らん! だいたい、大阪のどこでそんな話を……」

「SNSっちゅう便利なものがあるんや今は!」

「ガセとデマの温床だろ!」

 そこでようやく、粟田の足は床へと戻された。

「ほうなん?」

 幼い頃、大阪へと引っ越す前から、諒子はこういう娘だった。

 聞きかじった人の話に振り回されるが、粟田に説得されると素直に応じる。

 そんな諒子との仲は、年に一度、草競馬に帰ってくるたびに深まり、現在は遠距離恋愛中である。

 しかし。

 きょとんとしていた諒子の顔は再び、怒りで朱に染まった。

「八百長なんぞやらかしたら、二度と帰ってけえへんからな!」

 

 その晩、事務所では草競馬の運営委員会が開かれた。

 粟田はそこで、愕然とした。

「予算が……ない?」

 地方創成がどうのこうのという時代は、とっくに過ぎ去っていた。

 田舎はもはや、都会で儲けた人たちが金で売り買いする、ユートピアの断片でしかない。

 そんな時代に、年に一度の草競馬程度で観光客を集めても、焼け石に水でしかない。

 なんとかならないものか、とお互いに尋ねあっても、いい答えは出ない。

 唯一の手段は、ただ黙りこくっていた粟田だけが持っていたのだった。


 次の日、大賀奈々子が再び、草競馬協会の事務所を訪れた。

 粟田の顔を見るなり、開口一番、こう言い放った。

「手加減なんかしないでください」

 そこでつきつけたのは、SNSの書き込みだった。

 間もなく始まる鹿目草競馬への中傷が並んでいる。

 そのほとんどが、八百長疑惑について触れたものだった。

「こんなのはデタラメだ!」

 粟田は激昂したが、奈々枝は驚く様子もない。

「私もそう思ってます」

 再びミルクティーを飲みながら、粟田と奈々枝は向き合って座った。

 奈々枝は、真っ向から粟田を見据える。

「どうしても、勝ってみせなくちゃならないんです、父に」

 聞いてみれば、久平は娘に随分と嫌われていた。

 とにかく、勝つこと、儲けることしか考えていない。

 しかも、圧勝しか認めない。

 だから奈々枝も、学業にせよ、乗馬にせよ、長い間、プレッシャーを掛けられて育ってきた。

「でも、違うと思うんです、そういうのは」

 そこで見上げたのは、あの額である。

「これ、お祖父さまの字なんです。最初に、この草競馬のスポンサーになったときの」

 それは粟田も知らなかった。

 真面目な顔をしていた奈々枝は、急に頬をほころばせる。

「満点取らなくたって、トップを走らなくたっていい。それがお祖父さまの教えでした。勝負は結果じゃない、それそのものを楽しむことが大事なんだって」

 奈々枝のまっすぐな眼が、粟田を見つめる。

「だから、毎年、ここへきて、ずっと見てました。ロングホーンを走らせる姿、勝ち負けに全然こだわってなくて、気持ち良かったんです」

 立ち上がった奈々枝は、端正に一礼した。

「父が何と言ったか知りませんが、私、父の前で正々堂々と勝ってみせます、粟田さんに」

「いや、それは……」

 粟田がつい八百長を明かしそうになるほど、その立ち居振る舞いは誠実で、堂々としていた。

 それができなかったのは、携帯電話が鳴ったからである。

 言わずと知れた、大賀久平からのメールである。

 奈々枝の表情が曇った。

「もしかして……」

「いえ、他の方です、すみません、後がつかえてますので」

 その晩、粟田は近所の居酒屋に久平を呼び出した。

 久平は、しれっと言ったものである。

「いや、ひどいもんですな、こんな草競馬にあることないこと……」

 粟田もまた、遠回しに話を切り出す。

「事務所にかかっている、あの額なんですがね……」

「ああ、親父の!」

 久平は手を叩いた。

「欲のない親父でね。なんで小さな牛乳屋を、ここまで大きくできたのか不思議ですわ。会社を引き継いでからは、このままじゃいかんと思ってね」

 そこで身を乗り出すなり、苦笑いした。

「親バカなんですかねえ……いえ、いいんですよ、たとえハナ差でも、いい勝負が見られれば。親父も、日ごろからそう言っとりました」

 やはり遠回しにではあったが、話は通じたようだった。

 家に帰ると、両親に迎えられた諒子が待っていた。

「おい、マサル……誰と会うてきたんや」

「仕事の話だよ」

 女っ気なんかない子なんだから、と母親になだめられた諒子は、分かってます、と愛想笑いをする。

 粟田にも、満面の笑顔を向ける。

「可愛ええ子やなあ、牛乳屋の娘」

「何で知ってるんだ」

「SNSっちゅう便利なものがあるんや!」

 油断も隙もない世の中になったものだと、粟田は背筋が凍る思いがした。

 諒子は、笑顔のままで更に詰め寄る。

「いつのまにJKがそんなに好きになったん?」

「JKって……どこでそんな言葉を」

「SNSっちゅう便利なものがあるんや!」

 粟田は今日ほど、ITの進歩を呪ったことはない。

 さらに、そこで諒子は真顔で粟田にのしかかった。

「勝負や! うちのエランヴィタールと勝負せえ! 2頭まとめて相手したるわ!」

 エランヴィタールとは、加瀬家で育ったサラブレッドの5歳牝馬のことである。

 横で聞いていた父親は楽しそうに、仲がいいなあ、とつぶやいた。


 そして、恒例の鹿目草競馬の日がやってきた。

 事務所に集う人々が心配した通り、参加者も見物の観光客も、例年より少なかった。

 スポンサーの大賀社長が嫌われているせいだ、とぼやく運営委員も少なくない中、粟田にそれとなく、八百長疑惑への危惧を告げる者もいた。

 だが、粟田は悠然と、愛馬ロングホーンに乗ってスタートラインに立った。

 遠くには、北斗号に乗った奈々枝と、エランヴィタール上の諒子の姿がある。

 スタートのフラッグと共に、一列に並んだ馬は、一斉に駆け出した。

 ロングホーンは、例年に比べて遅かった。次々に、他の馬に抜かれていく。

その先頭を切るのが、諒子のエランヴィタールだった。

後ろ姿が、こう言っているようだった。

……何してんのやマサル! 八百長はホンマやったんかい!

 粟田はただ、横目で奈々枝と北斗号を眺めている。

 速さを揃えているのは一目瞭然だった。

 奈々枝の澄み渡った声が聞こえるような気がした。

 ……楽しんでください、私との勝負を。

 それでも、粟田は奈々枝とほとんど変わらない速さで走る。

 ところが、ある一瞬、北斗号はついと前へ出た。

 凄まじい速さでロングホーンを引き離していく。

 澄み切った青空の下、奈々枝の爽やかな声が響き渡るようだった。

 ……引っ掛かりましたね。

 すぐさま、粟田はロングホーンに一鞭当てた。

 凄まじい勢いで、追い上げが始まる。

 あっという前に、北斗号とロングホーンは、エランヴィタールに並んだ。

 観客から、どっと歓声が上がる。

 ほとんど同時に、3頭はゴールラインを突破した。

 並足になったロングホーンのそばに、北斗号が寄り添う。

 奈々枝が、さっぱりとした顔で頭を下げた。

「参りました」

 粟田は、まっすぐ前を向いたまま答える。

「大差でもハナ差でも、勝ちは勝ち……ってね」

 そこで2頭と2人の間に割り込んできたのは、諒子のエランヴィタールだった。

「ハナ差……ないでえ!」

 指差す先には、大賀乳業提供の大きなスクリーンに、写真判定が映し出されていた。

 奇跡の3頭同着が大きなニュースとして全国的に取り上げられると、鹿目草競馬は再び注目を浴びることとなった。

 もっとも、話題になるのが美少女であるのは世の常である。

SNSの影響もあって、大賀社長の娘である女子高生騎手、奈々枝は一躍、アイドル並みの扱いを受けることになった。

粟田はというと再び、元の草競馬協会事務所の管理人となる。

ただ、それまでと違うのは、そばに口やかましい関西弁の娘が寄り添っていることだった。

「何してんのやマサル! SNSっちゅう便利なものがあるんやで!」

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