宝の献身

空峯千代

目の前の君にできること

 万年引きこもり気味で、免疫が弱まっていたのか。

 体温がいつもより高いことに気が付いたのは、ちょうど今朝だった。


「それじゃあ、仕事行ってくるー」


 出勤する宝を見送って、鍵を閉めて。

 朝食分の洗い物をして。

 なんだか身体が上手く動かないような、悪い予感がした。


 もしかして……風邪ひいたかも。


 宝の家に越してきてから初めてのことだった。

 体温計の場所がわからない。

 風邪薬も、家に常備してあったか…?


 熱を自覚してしまうと、だんだんと他の症状に気付き始める。

 視界がぐらぐらする、頭がぼーっとしてきた。

 思わず、キッチンの壁に手をついてしまう。

 僕は壁に手を付けながら部屋を移動して、リビングのソファに寝転がった。




 寝始めて、どのくらい経ったか。

 やはり、僕は風邪をひいてしまったのだろう。

 身体は熱っぽいはずなのに、寒気がする。


 目は覚めたのに、起き上がろうとしても怠い。

 ソファの柔らかい感触に身を任せたまま、もう一度目をつむる。

 

 瞼の裏は暗闇だ。

 目を閉じると、五感が増しているせいか熱っぽさをより感じる。

 身体は熱を帯びているはずなのに、尋常じゃない寒気が駆け巡っていく。

 僕は毛布を手繰り寄せて、身体が毛布に収まるよう手足をひっこめた。


 毛布を頭まで被って、丸まったまま眠る。

 意識があるんだかないんだか、よくわからないままで僕はきっと夢を見ていた。


 小さい頃の僕が、パートへ行く母を引き留めようとしている。

 僕と母以外は誰もいない部屋で、幼い僕は寂しかった。

 「行かないで」と玄関で口にすると、母は困ったように僕を見下ろす。

 困らせたかったわけじゃないのに、その顔を見ると僕は決まって、自分の言ったことを後悔した。


 母は僕のわがままを聞いてはくれなかったけれど、受け止めてはくれた。

 玄関で立っている僕を抱きしめてから、母はパートへ行った。

 すっかり大人になった僕は、なぜ今更こんなことを思い出しているんだろう。


「……」


 声が、聞える気がする。

 夢なのか、現実なのか区別はつかない。

 僕は、まだ母と暮らしていたあの頃の団地に取り残されている。


「……」


 僕を抱きしめる体温が離れていく。

 一度は安心したはずの心が、また不安に駆られる。

 母を困らせているのに、それでも身勝手な自分があの頃は嫌だった。


「はなさないで」


 いつのまにかある、ずっと手に感じていた温もり。

 しっかりとした体温に向かって、うわごとのように言ってしまった。

 体温の持ち主は聞こえていたのか、僕の手を一層強く握りしめた。

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