うわさ
奈月沙耶
「話さないで」
これは拙僧がとある国司の館に宿泊した際、館の武官の藤原某から聞いた話である。
つわものと呼ぶにはひとの良すぎる風貌のまだ年若いこの男、以前は宮中を警護する滝口の武者であったという。
日々職務に励む中で、後宮の梅壺に仕える
夜更けの坪庭で、昼間紛失したという女主人の装身具を捜していた女と出会った。懸命なその姿に感心し、捜しものを手伝い、その後は姿を見かける度に親しく声を掛け合うようになり、そのうちに文が届き、逢引におあつらえ向きな曹司(宮中の殿舎の中の部屋)を見つけては誘いあい睦みあった。
忙しない職務の合間や、薄闇で行合う分には若々しく感じた女の容貌に、灯の下では目の際や口元に細かな皺を発見して、おや……、などとも思ったが、そうそう気にならないほどには女のことは愛おしかった。
そうするうちにお互いのことなどもこもごも語り合い、ある夜、女は意味ありげに沈鬱な溜息を吐き出した。
「どうした? 心配事でも?」
「うん……」
なかなか話そうとしない女の頬を撫ぜたり背中を撫ぜたりすると、女は重く口を開いた。
「不安なの……」
「何が?」
女はぶるっと肩を震わせ、上目遣いで男を見つめた。
「誰にも話さないでね……」
「おう」
「梅壺女御さまがね、こっそり何やら祈祷をしているの」
男はちょっと黙って目を見開いた。
帝の許可なく宮中で呪術の類を行うことは固く禁止されている。
「今をときめく梅壺女御さまが何を神頼みするっていうんだ」
後宮で権勢をふるっているのは東宮の生母の弘徽殿女御だが、帝の寵愛が深いのは梅壺女御だ。
「梅壺女御さまには御子がいらっしゃらないじゃないか」
ははあ、と男はわかったようなわからないような態であいまいに頷く。
「つまり子宝祈願をなさってると」
ならばわざわざ宮中で秘密裏にやらなくても、霊験あらたかな寺へでも人をやって祈祷を頼めばいいのに、と思ったからなのだが。
「そうじゃなくてね……」
女はいっそう声をひそめて恐ろし気に眉を寄せた。
「あたし、
口にされなかった言葉の続きはいやおうなしに脳裏で響いた。
「まさか」
この後宮で、人を呪っているとなれば、それは大事だ。
「あんたにだから話したんだよ。誰にも話さないで、話さないでよ」
「わかってるよ」
鳥肌の立った腕で女を抱き寄せつつ男は今聞いた話に固く蓋をした。
それからしばらくして、宮中を黒いうわさが駆け抜けた。梅壺女御が東宮を呪ったというものだ。梅壺の殿舎の床下から人形が発見されたとも。
真偽のわからないこととして耳にしたそのうわさに、男は背中に冷たい汗を流した。
女に懇願されたとおりに男は誰にも話していなかった。なのにこのようにうわさが流れて、男が話をもらしたのだと女に恨めしく思われてはいないだろうか。
心配で、早く女に会って自分は決して話していないと主張したかった。が、どういうわけか女の姿を見つけることができない。
ほどなく、梅壺女御は病気を理由に宮中から退出した。
あの
「なんだ、おまえ、今は弘徽殿女御に仕えているのか?」
久しぶりに会えて破顔したのも束の間、女が怖い顔をしているのに気付いて男は慌てて弁解した。
「いつかのあの話だがな、おれは誰にも話していない、話していないぞ」
「わかってるよ。あんたが話さないものだから余計に手間取ったんだから」
意味がわからなかった。話さないでと懇願されたから話さなかった。なのに女は怒っている。
「役立たずの武者様には用はないよ。あたしは弘徽殿で重用されてるんだから」
まったくもって理解できなかった。理解できないまま女とは会わなくなった。
やがて男は、男の父親が私的に仕えている摂関家の若君に従って下向することになった。受領に任命された若君を警護するためで、渋々ではあったが、都を離れてみれば、地方の方が自分には合っているのでは、と考えるようになった。
「宮中というのはわけのわからないところで……」
話すなというのが、話せという意図であったり。男女のかけひきも政治的な談判も言葉通りではなくて、そんなひきこもごもはまるで妖同士の化かし合いだ。
「どのような場所で輝くかは人それぞれでありますな」
「まったくおっしゃる通りで」
翌朝、国境まで拙僧を送ってくれた男は、若君の任期が終わっても都には帰らず地方官の職を求めるつもりだと朗らかに笑った。
うわさ 奈月沙耶 @chibi915
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます