どうか、この手を離さないで

鷹見津さくら

どうか、この手を離さないで

 朝起きた時、誰のものか分からない手と恋人繋ぎをしていた。


 何を言ってんだこいつと思われても仕方ないのだが、俺はクスリもやっていないし、寝不足でもない。幻覚でもなんでもなく、心当たりが全くない人間と恋人繋ぎをしていたのである。しかも、俺と恋人繋ぎをしている手から上に目線を動かすと手首、前腕、肘……そこまでしかなかった。肘から上が存在しない。腕だけが俺と恋人繋ぎをしていたのだ。心当たりがないとかいう問題じゃない。本当に誰なんだ。がっちりとして鍛えられている男の腕だということは分かるが、それ以外の情報が一切ない。


 がっちりと俺の左手の指に己の指を絡めたその腕は、何をしても外れそうになかった。左手をぐーぱーしてみても、微塵も動かない。

 最初は、死体の腕だけを切り落とし、俺の左手に絡めた人間がいて死後硬直によって作られた状況なのではないかとも思った。けれども、左手に伝わる自分以外の体温は、ばっちり平熱であることが分かる。それに腕の肘は血液も傷跡も存在しておらず、つるっとしていた。誰かに切り落とされてすぐの状態でこんなことにはならないだろう。俺はそちらが専門ではないので、詳しいと自信を持って言える訳じゃないが、生理学的にはそうそう起きないと思う。

 腕を外さなければ、警察にも駆け込みにくい。どうにかしようと腕を右手で掴んだ時、腕が跳ねた。


「えぅ、あ!?」


 喉から変な声が漏れる。慌てて手を離すが、腕はもぞもぞと動いたままだった。え、なに。怖いんだけど。

 動きながら、右手を離してくれないかなと思うけれど、全然離してくれそうにない。


「はなさないで」

「ひっ、今度はなに!? お化け!?」


 お化けは苦手なのだ。腕だけの生物は、逆に現実味がなくて夢みたいなので怖くない。しかし、お化けは別だ。本当に無理。

 俺がぶるぶる震えているとまた声が聞こえた。


「お化けじゃない。腕だよ」


 優しげな男の声だ。


「腕はしゃべらない……。俺の幻聴?」

「なんで生きた腕は受け入れてるのに喋ったら現実逃避するんだい? 幻聴でも夢でもなく、これは現実だよ」


 ぺらぺらと喋る声に合わせて腕が揺れる。


「……頭痛くなってきた。寝てもいいか?」

「駄目に決まってるだろう。君が起きるのを夜中に入り込んだ時から待ってたんだから」

「ふ、不法侵入だ! 警察を呼んでやる!」

「警察なんか呼んだら、腕だけをぶら下げてる君の方が捕まるよ」


 確かにそれはそうだった。俺は大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。


「……今すぐ離れてほしいんだが」

「僕もそうしたいところなんだけどね。それは難しいお願いだ。さっきも言ったけれど、僕を離さないでくれ。僕の願いを叶えてくれたら、すぐにでも離れてあげよう」

「……どうしたら離れてくれるんだ」


 そう言えば、腕が笑った。腕だけなのにどうやって笑い声を出してるんだろう。


「簡単な話さ。僕の体を見つけてほしい」


 腕の話によると、本当は腕だけの存在ではないらしい。ちゃんと人間の肉体があって、いつの間にか腕だけになってしまったのだ。元に戻る為には、本来の体の近くに行かなくてはならないのだという。しかし、腕だけでは移動することは難しい。厳密には、お化けの類いではない腕は、誰の目にも映る物理的な存在なので、腕がもぞもぞと指を動かし移動しようとすれば、非常に目立ってしまう。想像しただけで、中々にホラーな光景だし、元の体まで無事に辿り着ける気はしなかった。

 困った腕は、自分を元の体まで運んでくれる存在として俺を選んだ。


「なんで俺?」

「君なら、元の体の場所までスムーズに辿り着けるからさ」


 まさか、この腕は俺の知り合いなのだろうか。そう考えたけれど、腕に告げられた名前に覚えはなかった。


「全然、知らない人なんだけど……俺以外の方が良くない?」

「君じゃなきゃ駄目なんだ」

「えぇ……」


 話している最中も腕は一切離れてくれそうになかった。無理やり外すのも無理そうだ。

 仕方ない。この状況をどうにかするには、腕の要求に応える他ないようだ。


「……元の体の所に連れて行けと言われてもそれが何処にあるのか分からないけど、それも俺が探すの?」

「いや。在処は分かってるんだ。僕の体は、今昏睡状態になっていて、入院をしている」

「そこまで連れて行けって? 無茶言うなよ。部外者は気軽に見舞いに行けない世の中になってんだぞ」

「大丈夫。君なら行けるよ」


 きゅっと左手に絡まる指の力が強まった。


「君の働いてる病院に僕は入院してるんだからね」

「あー、そういうことか」


 俺は右手で頭を押さえる。なるほど、彼のことは知らなかったが、同僚の誰かの患者だったらしい。


「だから、俺を選んだのか」

「その通り。普通の人間よりも病室には連れて行きやすいだろう? 職場なんだから」

「気軽に言うなよ、別の科だと行きにくいんだからな……」


 目的地が分かったところで、俺は立ち上がる。今日は準夜勤の日だ。起きた時間が遅めだったので、腕の目的を果たさなければ仕事に間に合わなくなるかもしれない。あとちょっと休みたかったが、少し早めに出勤してしまおう。

 まずは服を着替えようとして困った。腕が邪魔なのだ。利き腕が塞がれていないだけ、まだマシだったのかもしれないが、服を脱ぎづらいことこの上ない。着るのもまた、難しい。髪を整えるのも髭を剃るのも難易度が高かった。

 やっとの思いで準備が出来ても、外に出てからも一苦労だった。腕をぶら下げた人間なんて、ハロウィンの夜ぐらいしかスルーしてもらえないだろう。遠目に見たって、腕が偽物だと思われにくい。絶対に事情聴取を受けてしまうに違いなかった。

 苦肉の策で大きめのコートを羽織り、左手をポケットに突っ込む。不自然な膨らみが出来ているが、ギリギリ許容出来る範囲だろう。多分、きっと。うん。大丈夫なはず。

 びくびくと怯えながら、道を歩き、電車に乗り込み、病院へと向かった。無事、病院の更衣室に足を踏み入れて、俺は安堵のため息をつく。ここからが本番なのだから、安心はまだ出来ないけれど。


「あと少しだね」


 弾んだ声に俺は少しイラッとした。誰のせいでこんな苦労したと思っているんだろうか。


「……ほら、行くぞ」


 白衣に着替えると、コートよりも薄い生地のせいで腕が目立ちそうだった。いつもはしないが、上着を羽織ってなんとか誤魔化す。

 腕の告げた病室は、あまり立ち入らないフロアだった。他の科の医者がいるのは、別におかしなことではないが、目立ちはする。


「あら、こっちにいるのは珍しいですね」

「ははは、ちょっと用事があって来ました」


 顔見知りの看護師に声を掛けられて、冷や汗をかきながら、俺はようやく病室に辿り着いた。個室に入り、ベッドの上に視線をやる。幸いなことに見舞い客は居なかった。

 ベッドの上には、目を瞑った男が横たわっている。呼吸器は付けられていない。息は問題なく出来ているようだ。点滴やら、バイタルチェックの為に色々なものをつけられている男の体は、白く細い。近づいて、ゆっくり布団を剥いだ。そこには、五体満足の体がある。


「え」


 右腕ももちろん、存在していた。

 じゃあ、俺の左腕から離れないこの右腕は、一体誰のものなのだろう。

 思考停止した俺は目眩を感じて、座り込む。ちかちかとする視界の中、左腕が自由になったのを感じた。


「ありがとう。君のおかげで元に戻れた」


 軽やかな、けれども、先ほどまでとは違って久々に声を出したかのような掠れた声が、聞こえた。


「その腕は、何処の誰とも知らない腕なんだ。僕もある日、突然起きたら知らない腕に手を繋がれていた。君と同じだ。僕はその腕の元の体のところへ向かって、それで」


 交代するように僕が腕だけの存在に憑依してしまった、と声は告げる。


「ここまで連れてきてくれて、僕と交代してくれてありがとう。きっと君も、君の体の元へと連れていってくれる人のそばに気がついたらいることになるだろう。大丈夫。僕のように体に辿り着ければ、戻れるから」


 君が無事に誰かと交代出来ることを祈っているよ、という声が聞こえて。

 そこで俺の意識は途絶えた。



***




 目が覚めるのをじっと待つ。

 握りしめた手だけは、決して離してはいけないということだけは理解していた。そして、元の体に戻るには、握った手の人間がいなければならないことも。

 腕だけになった俺は、この手を離したら消えて無くなってしまう。離すわけにはいかなくて、指を絡める。

 もぞりと起きた気配がして、俺は呟いた。


「はなさないで」

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