第2話 悲しき炎
「何だ!?」
火災報知機の音ではない。救急車やパトカーの音でもない。ましてや防災無線の音であるはずもない。
青年は辺りを見回した後、咄嗟に外へと駆け出した。身の危険を感じたからである。
田舎ゆえ、夜は暗闇のとばりが支配する事務所建物の外。見上げれば、満天の星が瞬いている。
「気のせいか? 」
だが青年の耳には、相も変わらずケタタマシイ音が鳴り響いていた。
これはもしかして、昔、ドラマで見た空襲警報のサイレン?
青年がそう思った次の瞬間……。
辺りは恐ろしい程の巨大な業火に包まれた。目に見える範囲は全て炎に覆われて、木々も家屋も全て燃えている。そして幻でない証拠に、突き刺さるような熱波が彼の肌を苛んだ。
「火事? どうしていきなり!」
青年は急いで上着のポケットに手を突っ込み、スマートフォンを取り出した。少し離れたマンションに住んでいる家族が心配になったからである。だが、電話をしようとした彼は驚いた。
「?」
それは彼が手に取ったスマートフォンが、今まで見た事もない機械にすり替わっていたからだ。いや、確かにスマートフォンの面影はある。だが彼の知っている機械とは全く違うのだ。強いて言うならば、あと五十年も経てば、スマートフォンもこういう形に進化するかも知れないという代物であった。
そして青年は、二度驚く事になる。
その面妖な機械を持つ彼の指や手が、全てシワだらけになっていたのだ。正に老人のそれであるように。
彼は慌てて自らの顔を触ってみる。だがその手に感じたのは、肉がすっかり削げ落ちた年老いた皮膚の感触であった。
「どういう事だ。どうなってるんだ」
訳が分からず、数分前まで青年だった老人は叫ぶが、彼の戸惑いなどお構いなしに、荒れ狂う業火は彼を包み込む。熱さというよりも突き上げるような痛み、皮膚の焼ける臭い、パチパチという音。彼は咄嗟に死を予感した。
意識が薄れていく彼の心に、何人もの子供たちの声が流れ込んでくる。
助けて。熱い、熱いよ。お母さん、助けて、助けて……!
やがてその場に仰向けに倒れ込んだ彼は、最後に空一面を覆い尽くす爆撃機のシルエットを見た気がした。
どれくらいの時間が経ったであろうか。彼の目にはポッカリと浮かんだ月が映り込んでいる。事務所の庭に倒れている事を悟った青年は、頭を振りながら上半身を起こした。
「気を失っていたのかな。まぁ、最近残業が多かったせいで疲れていたのかも……」
辺りを見回すと、そこにはいつもの夜景がたたずんでいる。業火はもちろん、サイレンの音も今は全くありはしなかった。体も若々しさを取り戻している。立ち上がり事務所へ戻ろうとした青年は、十数メートル先にボッーと浮かび上がる光を目の当たりにした。
あの時の光!
彼の脳裏に去年の惨事の様子がありありと甦る。その光の中には、あの時見た”ボックズキ”の姿がはっきりと確認できた。
「君は!」
光りの中の子供は「ボクたちは妖怪になんてなりたくなかった。そしてあなた方の子供や孫たちも……」と言ったかと思うと、ボックズキは光とともにスウーっと消えていった。
青年はしばらく夢うつつの状態から抜け出せずにいたが、踵を返すと事務所へと戻って行く。そして、デスクの引き出しの中へしまい込んでいた封筒を取り出した。
実は彼のところには、かつて仕えた政治家の息子から”地盤を引き継いだので、また戻ってきてほしい”との招請が舞い込んでいたのであった。
青年は穏やかにほほ笑み、その封書を二つに破ってゴミ箱へと捨てた。
彼はデスクにある電話の受話器を取り上げ、ダイヤルボタンを押す。
「あぁ、町内会長さん? 大変図々しいお願いで恐縮なんですが、先日お断りした慰霊祭の実行委員の件。席はまだ、空いておりますでしょうか?」
青年は期待をせずに返答を待ったが、通話先の老人は”若い人が平和の呼びかけに参加してくれて非常に嬉しい、是非お願いします”と、しわがれた声で快諾の意を伝える。
丁寧に礼を言って受話器を置いた青年の胸には、小さくではあるけれど、力強い灯火が生まれていた。
悲惨な戦争と敗戦を経験し、平和国家になる事を誓ったその国が、武器輸出の解禁を決定した翌年の話である。
【完】
妖怪ボックズキと悲しい炎(全2回) 藻ノかたり @monokatari
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