その日が来るまで

真花

その日が来るまで

 そこは三十年前のあの日、最後にユウさんと過ごした部屋だった。東京のシティホテルの三十二階、ユウさんは興味を示さなかったけど夜景がきれいで、その夜景に私は見惚れていた。後ろからユウさんの声、アヤ、私は振り返る。ユウさんはあの日のままの姿で、服装まで一緒で、ソファに座って私に笑いかける。強烈な磁力に引かれて私はユウさんの膝の上に座る。太ももの弾力をお尻で感じて、それがユウさんの存在の証明のようで、胸が膨らむ。ユウさんはそっと私を抱き締める。世界に愛されたようだった。違う。ユウさんにだ。アヤ、もうそろそろ僕のところに来ないか? 一緒に暮らそうよ。もし、三十年前に言われていたらすぐにでも荷物をまとめただろう。私は首を振る。喜びと悲しみを撹拌するように。私、まだやりたいことがあるんだ。いつか終わりの日は必ず来る。だから、その日まで、やらせて欲しい。二人の間に沈黙が渦巻く。だが、沈黙は張り詰めてなんていなくて、とても柔らかだった。ユウさんはぎゅっと腕に力を入れて、きっとそう言うだろうと思ったよ、と私の耳元で囁いた。穏やかな夕陽のような声だった。

 私はユウさんから降りて、ベッドに腰掛ける。くっつき過ぎない方がユウさんの全貌を見ることが出来るのは不思議なパラドックスだ。どっちがユウさんをいっぱい感じられるのだろうか。ユウさんがタバコに火をつける。アヤ、今も吸ってるの? 吸ってるよ。ユウさんと同じ銘柄のを。そうか、変えたんだ。うん。私も吸いたいから一本頂戴。ユウさんが箱ごとタバコを私に渡す。私が火をつけるのを見届ける。ユウさんは美味そうに煙を吐き出す。アヤ、今も描いているの? もちろん描いているよ。ずっと描く。それがやりたくて生きているんだから。そっか。絵を見られないのが残念だよ。うちまで来てくれればいいのに。それは出来ない。ここまでが最大の接近だよ。きっといい絵を描いているんだよな。私は込み上がる何かを感じた。喜びのような自信のような歌のような、だがそれが何かが判別出来ない。出来ないが、私の頬は緩んでいた。ユウさんも同じ顔をして、その顔が見られたなら心配はいらないね、と言った――


 いい夢。悪夢の日にはすぐに起き上がるが、いい夢のときにはベッドの中で反芻する。ユウさん。会いに来てくれたんだね。いつぶりだろう。でも、嬉しい。昨夜の雨は上がったみたいで、窓の外が静かだ。反芻することをやめて、ベッドを出る。仏壇の前で手を合わせる。ユウさん。仏壇にユウさんは入っていないし、位牌もない。ユウさんには家族があって、そっちにそれらはある。ここにあるのは私のための、ユウさんに勝手に繋がっている仏壇だ。ユウさんの最期はだが私とあった。その後は大変だったけど、最期を共に出来たのは、よかったと思う。

「さて、今日も生きますか」

 朝食を摂って、と言ってももう昼だが、イーゼルに向かう。今描いているのは在りし日のユウさんだ。記憶を頼りに、気持ちで脚色して、昨日会えたからもっと生き生きと描けそう。アトリエは広くて、部屋の端には描き終えた絵が並んでいる。大小様々、全部で三十枚くらいある。倉庫にはもっとある。描きたいから描く。哲学的なことを考えた時期もあったが、今は情熱をぶつける行為になっている。胸の底から湧き出したものを筆を通して絵にするから、何も心が動かないときには描けない。だが、そんな日はほとんどない。

 私は絵をただ描く。

 チャイムが鳴り、筆を止める。玄関のドアを開けると、親戚のキョウイチが立っていた。その手にはりんごが入った籠が持たれていた。キョウイチはたしか中学二年生だった。

「どうしたの?」

 キョウイチは頬をりんごと同じくらい赤らめて、籠を私に渡そうとする。私は理由の分からないものは受け取りたくなかったから、手を出さない。キョウイチは困ったような顔をして籠を下げる。右を見て左を見て、私を見ないままキョウイチは声をやっと発する。

「お母さんがアヤさんにって」

 私はご褒美を与えるように微笑んで、籠を受け取る。キョウイチは渡した手をしばらく宙空に浮かせてから、ゆっくりと下げる。居心地の悪そうな、だが去るのもそれはそれで違うと言っているようなキョウイチはやはり私を見ない。

「少しお茶でも飲んで行く?」

 キョウイチは驚いた顔をした後に、頷いた。アトリエには行かずに、ダイニングに通した。だが、キョウイチはアトリエを見たいと言う。りんごをダイニングテーブルに置いて、アトリエに連れて行った。

「これ誰?」

 私はうんうんと首を縦に振って、ユウさんの絵の横に立つ。

「永遠の恋人」

 キョウイチは興奮の鼻息を噴いて、アトリエの中を歩き回り、壁に立てかけてある絵を一つ一つ吟味する。私はその後ろ姿をじっと見る。勝手に触れてはいけないことは以前教え込んだから、大丈夫だろう。一周回って、キョウイチが私の前に立つ。私の眼を見る。

「絵ばっか描いてて退屈じゃないの?」

 私は思い切り笑った。その疑問があまりに的外れて、実際の私の真逆を言っていることが腹の底からおかしかった。キョウイチはポカンとした顔で佇んでいる。ひとしきり笑ったら、私はユウさんの絵の上に手を乗せて、これを見ろ、のポーズをする。

「絵があるから楽しいんだよ」

 キョウイチはいまいちよく分からないようだ。頻りに首を捻っている。私は説明しようかと思ったが、あまり意味がないような気がしてやめて、少しだけ言う。

「絵は私の人生なんだ。キョウイチにもそう言うものがいつか出来るよ」

 キョウイチはやはり首を捻る。捻り切った後に、やっと言葉が出る。

「僕はゲームが好き」

 私から自然にため息が漏れて、それは少し失礼なことをしたような気がしたが漏れてしまって、誤魔化すように小さく何回か頷いた。

「それも一つの生き方だね。さあ、帰ろうか」

 キョウイチを送り出したら私はまた絵を描く。

 夜がいつの間にか来て、集中力が切れたところで筆を置く。絵の中のユウさんは多分本物よりも美しく、魅力的で、それは私から見たユウさんであって、それでよい。あと数日の内には完成するだろう。夕食を摂って、風呂に入って、仏壇の前に座る。ユウさん。

「今日も生きました」

 いつかその日が来るまで。ずっと。


(了)

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