後篇


 ――最悪だ。


 会社から自宅へ帰る途中、私は普段とは逆の方向から乗り換え駅を目指していた。つまり、一度乗り過ごしたのだ。暖房が効き過ぎた車内はもわっと熱くて、頭が痛いなと思ううちにいつもの駅を過ぎていた。


 仕事ではミスがあった。数日前にこちらで製本して先方に送った契約書が、ひとつ前のバージョンだった。作業中に上司からなるべく早く送ってと口頭で急かされ、慌てて出したものだ。今から修正なおして郵送では間に合わないので、直接先方に赴いて届ける形で事なきを得た。


 新年の慌ただしさがだいぶ落ち着き、今年も頑張るかなんて、柄にもなく思った矢先のことだった。予定外の外出をしたせいでその後の作業も思うように進まず、めずらしく数時間の残業をした。


 ミスは誰にでもあるし、いちいちくよくよしていては仕様がない。平社員の私にできるのは、自分の非をきちんと認め、謝罪し、引きずらないこと。そんなのわかっているはずなのに、一杯になったグラスに最後の一滴が落ちた瞬間、何かが溢れて止まらなくなった。もしかしたら今日が、私の二十八歳の誕生日だからかもしれない。



 花屋の前を通る頃には、時刻は二十二時を回っていた。いつしか見慣れたくしゃっとした黒髪の、襟足部分が目に入る。その髪の持ち主はこちらに背を向けて、店のシャッターを閉めるところだった。


「あれ、今日は遅いんですね」


 シャッターを閉め終わり、こちらへ振り向いた彼が言った。


 どれほどひどい顔をしていたんだろう。彼は、返事をしない私の顔を改めて見て、一瞬ぎょっとした表情を浮かべた。それから、店の隣にある自動販売機をそろりと指差す。


「……コーヒーくらい、おごりましょうか」




 花屋のすぐそばの階段を上がった先に、ちょっとした広場がある。駅直結のオフィスビルが建っていて、そのエントランスのようなもの。石でできたベンチや変な形のオブジェがあって、周りにはテナントの飲食店が並ぶ。

 年が明け、冬が本格的になる折の二十二時過ぎ、屋外。言うまでもなく寒いのだけれど、今日の分の気力を使い果たした私には、それがどんな寒さかを形容するすべはない。


 ベンチに腰を下ろし、彼から缶コーヒーを受け取った。カシュっと音を立てて開け、ひと口すする。ケトルで沸かしたお湯に比べると、自動販売機のホット飲料は案外ぬるい。それでも猫舌の私には、まだ若干熱い気がする。


 彼は私の隣に座って、静かにコーヒーを飲んでいた。ココアとかミルクティーとか甘い飲み物を選びそうな見た目なのに。意外にも私と同じブラックコーヒーを、何食わぬ顔で飲み進めている。



「あ、そうだ」


 ふと思い出したように、彼は通勤用と思しき黒のトートバッグから一本の花を取り出した。

 ひらひらと蝶のように可愛らしい花が、細長い茎に縦一列、行儀よく並んでいる。白地に絵の具を滲ませたような、グラデーションのある青みの紫は上品で美しい。


「今日のお花です」


 コーヒーを買う前、彼は一度閉めたシャッターを開けて店に戻っていた。忘れ物かと思ったが、これを取ってきてくれたのか。


「……ありがとうございます」


 私はその花を素直に受け取った。途端に、涙が一粒こぼれた。


 再びぎょっとするような気配が隣から伝わってくる。彼はトートバッグをがさごそと手探って、ポケットティッシュを取り出した。

 差し出されたティッシュで目元と鼻を押さえながら、私は言う。


「……無かったんです」

「え?」

「切り取りたいと思う瞬間なんて、私には無かった」


 目の前の地面に向かって淡々と言葉を落としていく。そこには恨めしさとも取れる響きが、煙のようにじわりと立ちのぼっていた。


 ――何を言ってるんだろう。単なる客の一人に数か月前に言った言葉を、彼が覚えているはずもないのに。勝手に救いを感じて、勝手にひるがえされたような気持ちになって、それを心の奥でいつまでも引きずって。傍迷惑はためいわくもいいところだ。


 言うだけ言ったあと、私は押し黙った。横顔に視線を感じるが、彼がどんな顔をしているかは見えない。顔を上げてそれを確認する勇気はなく、私はただじっと広場のコンクリートの地面を睨み続けた。


 なぜだか息を止めたいような気持ちになる。でも、そんな芸当はできるわけもなくて。それでも力の限り抗って、なるべく気配を立てないような長く薄い呼吸を、三度繰り返したところで。


 ぽつりと、彼が言った。


「別になくてもいいと思いますけど」



 息を止めようと試みていたのも忘れ、思わず、勢いよく彼のほうへ振り向く。そんなこと、同情やその場しのぎで言ってくれたのならかえってみじめだ。

 けれどもそこにあったのは、きょとんとした、拍子抜けするほどに表裏のない眼差し。


「切り取りたいと思う瞬間なんて、なくてもいいんです。あったらあったで、素敵ですけど」

「……はあ」


 溜め息ともつかない返事が口から漏れた。身体から急速に力が抜けてゆく。無理に慰めるでもなく、そんなふうに真っ直ぐな瞳で言われては。


 今日が自分の誕生日だと気がついたとき、一杯になったグラスから溢れた水は形をとりちゅうに浮き上がって私の周りでぐるぐると、ある一定のリズムを刻んでいた。それが今、ぺしゃんと。突然に意思を失ったかのように、落ちていった。コンクリートの地面から立ちのぼる煙が消えた。



「切り取りたい瞬間って、たとえばなんですか?」


 もはや、ぽけっと彼の顔あたりの空中を見ていたら、訊ねられた。

 ……たしかに、そう問われてみると。


 手のひらにすくった砂がさらさらと指の隙間から流れ落ちていくような日常の中。早く何かを得なければ、何かを成さなければ、「締切」がやってくる前に。


 そんな不透明な恐怖が心を鈍く掴んでくるのだけれど、具体的には考えたこともなかった。恋愛や結婚? 仕事での成果? 趣味を思いっきり楽しむとか?

 改めて考えてみると、そのどれもがそうなような、そのどれもが違う気もした。



 眉を寄せ、今にもうーんとうなり声を上げそうになっている私を見て。彼はくすっと笑った。


「言ったとおり、俺はなくてもいいと思いますけど。ワタナベさんがそう言うなら、」


 ワタナベさん。いきなり呼ばれた名前に驚いて彼を見る。そう言えば、スタンプカードを作ったときに教えたんだった。私の小さな戸惑いには気づかないで、彼は言葉を続けた。


「お互い考えてみましょうか。何があったら、切り取りたい瞬間なんて思うのか。思いついたら、教えてください」

「……はい」


 素直に返事をした。

 それから、缶に残ったコーヒーを口に運ぶ。だいぶぬるくなっていたけれど、私にはこれくらいがちょうどいい。


 溢れるだけ溢れた水は、これ以上流れ出ることはない。グラスの表面に、鏡のように澄んだ湖面を作り出している。




 ひざの上で、彼からもらった花が静かに輝いていた。


 冷たい夜。星などほとんど見えない、都会の仄暗ほのぐらい空の下。あたりを照らすのは、閉店作業をしている飲食店の、ぼんやりした明かりだけ。


 そんな風景の一端で、ひとり静かに、花は瑞々みずみずしく咲いていた。どこにでもあるような白の薄い包装紙に包まれて。切り取られたことなんて、まるで気づいてもいないみたいに。



 ――綺麗。


 ただ、そう思った。



 弾かれたように、私は彼のほうを振り向いた。


「名前、教えてください」


 ああ、と思い出した調子で言って、彼は答えた。


「スイートピーです。蝶が舞うようで、新年に似合いの花ですよ」

「……ありがとうございます。でも、そうじゃなくって」


 その花の名前がスイートピーだということは受け取ったときにわかった。最近スマホで見た記事に、たまたま載っていたから。彼から名を聞くうちに少し興味が湧いて、私は自分でも花について調べるようになっていた。



 ――でも、そうではなくて。私が今知りたいのは。


「あなたの、名前を」




 いつもにこにこと細まっている柔らかな瞳が、少しだけ見開かれた。それから。


 もらった花なんかよりもいっそう無垢に、光るように彼は笑った。


 近くの閉店作業中のカフェの明かりが、彼の周りをぼやっと電球色に照らしていた。



 唇からありふれた名前が零れる。



 その一瞬、世界は永遠になった。







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永遠に咲く花 出 万璃玲 @die_Marille

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