本編
※本編(音声スポット・須磨海水浴場)
小学五年生の八月初旬のことだった。
夏休み真っ只中のその日、トモキは父親につれられて
須磨海水浴場は阪神間で最大の海水浴場であり、砂浜の長さはおよそ千八百メートルに及ぶ。白い砂と青々とした松が織り成す海辺の光景は、日本の
須磨海水浴場にはふたつ年上の姉も一緒にきていた。しかし、海を前にして心が躍るトモキとは裏腹に、姉のほうはどこか退屈そうな顔だ。今年の春に中学生になった姉は、急にトモキと遊んでくれなくなった。トモキが話かけると、面倒くさそうな態度を取ったりもする。
母親が同行していないのは、昨晩から体調が優れないからだ。症状は咳が少し出る程度ではあるものの、大事を取って留守番することになった。
トモキと父親は海の家のひとつに向かい、併設された更衣室で水着に着替えた。姉は水着に着替えようとせず、私服のまま砂浜で待っていた。
「姉ちゃんは泳げへんの?」
「泳がへん。漫画でも読んどく」
姉はトモキに目もくれずにそう答えた。砂浜に広げたビーチパラソルの下で、陽差しを
(なんで海にきて漫画やねん……)
そうは思ったものの口にはださなかった。
まだ午前中だというのに、砂浜の賑わいは相当だった。どこを見ても人だらけだ。関西有数の海水浴場である須磨海水浴場は、家族づれや若者からの高い人気を得ている。一年中海辺散策などが楽しめる場所ではあるものの、海水浴シーズンがもっとも盛況なのは間違いなかった。
トモキは姉のことは放っておいて、さっそく海に駆けていった。「こら、準備運動をしろ」と背後で父親の声がしたが、聞こえないふりをして海に飛びこんだ。
それから父親と泳ぐ勝負をしたり、ビーチボールで遊んだりした。海は学校のプールよりも全然広くて気持ちがいい。試しに海水を一口飲んでみたら、塩からくて咳が何度も出てしまった。
そうやって一時間ほどが経った頃、父親が陽差し目を細めつつ言った。
「よう遊んだな。ちょっと休憩しよか」
トモキはまだまだ遊び足りなかったのだが、父親はそそくさと砂浜にあがってしまう。トモキも仕方なく海を出た。
父親は姉と一言二言交わすと、海の家ほうに歩いていった。飲み物でも買いにいったのだろう。トモキは姉の隣にスペースを見つけて腰をおろした。濡れた足や尻に白い砂がべっとりとついた。
その砂を手で払い落としていると、姉が呆れた顔でトモキに言った。
「あんた、やっと起きたな。せっかく海にきたのに、寝てばっかりやんか。まあ、わたしも漫画ばっかり読んでるけど……」
トモキは「寝てる?」と首を傾げた。
なにを言っているのだろうか。
トモキが海で父親と遊んでいたのは、姉だってわかっているはずだった。
「全然寝てへんやん」
姉にそう反論したとき、誰かの視線を感じた。
視線につられて海のほうに目をやると、少し沖に髪の長い女性が立っている。女性は腰から下が海の中だというのに、真っ黒な服を着たままだった。長袖のワンピースのようだ。
トモキは女性を指差して姉に尋ねた
「あの人、なにしてるんやろ?」
すると、姉は座ったままうつらうつらとしていた。さっきまで手にしていた漫画は、砂の上に放りだされている。
「なんやねん。寝てんの姉ちゃんのほうやんか……」
呟いて女性に向き直ったとき、唐突に耳もとで声が聞こえた。
こっちにおいで……いっしょに遊ぼう……
トモキは驚いて背後を振り返った。たくさんの海水浴客が認められるものの、その声が耳もとで聞こえるとは考えられない。みんな少し離れたところにいる。
うつらうつらとしている姉の声でもない。
(気のせいやろか……)
不思議に思いつつ前に向き直ったとき、同じ声がまた耳もとで囁いた。
こっちにおいで……いっしょに遊ぼう……
トモキはまさかと思いながらも、海の中にいる女性に目をやった。
この声はあの女性のものに違いない。
離れたところにいる女性の声が、耳もとで聞こえるなんておかしい。小学生のトモキにでもわかることだった。にもかかわらず、あの女性の声が確かに耳もとで聞こえる。
(なんで……)
気味の悪さを覚えたとき、また耳もとで声が聞こえた。
こっちにおいで……いっしょに遊ぼう……
やはりこの声は海の中にいる女性のものだ。改めて確信すると背筋がぞくりとした。
囁くような声は執拗にトモキを誘った。
こっちにおいで……いっしょに遊ぼう……
女性が何者であるかは不明だった。しかし、きっとあっちにいってはいけない。海に入ってしまうと、もう戻ってはこれない気がする。
トモキは息を殺して女性を見据えていた。
やがて女性は海の中にすうっと沈んでいった。直後に波打ち際の砂が、足の形にボコっとへこんだ。
すぐにもうひとつ穴ができた。
ボコ……、
だんだんトモキに近づくように、穴は続けていくつもできていく。
ボコ……、
ボコ……、
ボコ……、
まるで見えない誰かが、こちらに向かって歩いてきているようだ。
ボコ……、
ボコ……、
ボコ……、
穴はついにトモキの目の前までやってきた。気づくと青白い裸足の足がそこにあり、頭の上から声が聞こえる。
こっちにおいで……いっしょに遊ぼう……
トモキは砂浜に座ったまま、おそるおそる目の前を仰ぎ見た。
真っ黒なワンピースを着た髪の長い女性がそこに立っている。だらりと垂れた前髪に女性の顔は覆われており、かろうじて黒ずんだ唇だけが隙間に覗いていた。
その唇が薄く開いた。
こっちにおいで……いっしょに遊ぼう……
女性はゆっくりと身を屈めて、トモキの両手首を掴んだ。なぜか女性の指は六本あり、恐ろしいほど力が強かった。トモキは掴まれた手首を引っ張られ、拒否する間もなく無理やり立たされた。そして、海のほうにずるずると引きずられてしまう。
「姉ちゃん!」
背後を振り返って助けを求めたが、姉は未だにうつらうつらとしていた。あれほど賑わっていた砂浜が、今はどこにも人の姿が認められない。
トモキは泣きそうになりながらも女性に
「姉ちゃん!」
もう一度叫んでみたものの、やはり姉は気づいてくれない。ビーチパラソルの下にで、うつらうつらと頭を揺らしていた。
とうとう波打ち際まで引きずられてしまった。このままだと海の中につれこまれてしまう。
こっちにおいで……いっしょに遊ぼう……
いよいよ恐怖を覚えたトモキは、咄嗟に女性の腕に噛みついた。すると、六本の指の力がほんの少し緩んだ。反射的に両腕を引く。手首から六本の指が離れたとき、トモキははっと目を覚ました。
トモキは一瞬なにが起きているのか理解できなかった。だが、やがて自分は夢を見ていたのだと判断した。ビーチパラソルの下にレジャーシートが敷いてある。その上で眠りこけて夢を見ていたらしい。
それにしてもリアルな夢だった。目覚めてもなお恐怖がうっすら残っている。
嫌な気分のまま
「あんた、やっと起きたな。せっかく海にきたのに、寝てばっかりやんか。まあ、わたしも漫画ばっかり読んでるけど……」
さっき同じセリフを姉から聞いた。あれも夢だったのだろうか。
(正夢……?)
トモキが疑問に思っていると、姉がすっと立ちあがって言った。
「あんたも起きたことやし、わたしもちょっと泳いでこよ」
目覚めてすぐには気づかなかったが、立ちあがった姉は水着姿だった。
「あれ、姉ちゃん、いつ水着に着替えたん?」
「いつって、さっき着替えたやんか」
「だから、いつ?」
すると、姉は怪訝な顔をした。
「あんたが海の家で着替えているときやんか。更衣室は別やったけど、わたしも一緒に着替えにいったやろ」
トモキは首を傾げた。
「そうやったっけ?」
「そうやったよ。もしかしてまだ寝ぼけてんの? とにかくわたしは泳ぐから。あんたはどうすんの。一緒に泳がへんねやったら、そこにいとき」
「え、一緒に泳いでええの?」
「ええよ、別に」
ここ最近の姉はトモキと遊んでくれなかった。しかし、今は一緒に泳いでもいいと言ってくれている。
「俺も泳ぐ!」
勢いよく立ちあがったとき、姉はすでに海に向かっていた。
一足先に波打ち際に着いた姉が、トモキを振り返って言った。
「早よ、
「待って、姉ちゃん!」
トモキが波打ち際に着くと、姉はもう海の中だった。トモキも波をバシャバシャを踏んで海の中に入っていく。
「待ってって」
「あんた、遅いねん」
トモキがようやく姉に追いついたとき、姉は強い力でトモキの手首を掴んだ。その指はなぜか六本あった。
「え……」
トモキはすぐ隣にいる姉を見た。
海に入るまでの姉は間違いなく水着姿だった。にもかかわらず、今は真っ黒なワンピースを着ている。顔はだらりと垂れた前髪に覆われて見えないが、黒ずんだ唇だけが前髪の隙間に覗いていた。
トモキは海の中から背後の砂浜を振り返った。ビーチパラソルの下で姉がうつらうつらとしている。
「姉ちゃん……」
力なく呟いたとき、手首に食いこんでいる六本の指が、さらに強くぎりぎりと食いこんだ。
隣に視線を戻したトモキは、黒ずんだ唇が薄く開くのを見た。
こっちにおいで……いっしょに遊ぼう……
*
須磨には邪悪なモノたちが集まってくる。
とりわけ水辺はその傾向が強く、不用意に近づくのは危険である。
この日、トモキは須磨海水浴場で姿を消した。
両親や姉が彼の無事を祈り続けているが、その
了
〔受賞作〕棲魔の海辺 烏目浩輔 @WATERES
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