ハナサナイデ
リュウ
第1話 ハナサナイデ
「ハナサナイデ……」
耳元でこの言葉を聞いて、私は目覚めた。
私は大きく目を見開いていた。
見えるのは天井だった
天井に張られたボードの穴が規則正しく並んでいる。
天井には銀色のカーテンレールが付けられ、それが部屋を区切っていた。
カーテンレールに白いカーテンがかかっていて、間接照明の様にぼんやりとした明るさでやさしく部屋の中を照らしていた。
病室だった。
私は目を閉じて、今、自分自身に起こったことを考えていた。
「ハナサナイデ」
耳元で囁かれた。
私にはそう聞こえた。
いつからだろう、時折、この言葉で起こされていた。
この病室に移ってからだろうか。
最近、物忘れが多くなり、いつからか曖昧だった。
その言葉を考えた。
時計を見た。ベッドの横のラックに付いている時計だ。
六時二十分。
廊下に人の動きを感じる。
看護師が歩いているのだろう。
私は、ゆっくりとベッドの上を転がるように横になり、そして更にゆっくりと身体を起こした。
こうしなければいけないと医師や看護師が言うので、その通りに身体を起こした。
私のベッドは、窓際だったので、暇なときは、外を眺めていた。
入院してそんなに日は経っていないはずだ。
三週間くらいだと思う。
不思議なもので、もう何年も入院していたような気がしていた。
外を眺め、時より聞こえる小鳥たちの鳴き声が耳に心地よかった。
それにも飽きたら、病棟を散歩したりテレビで懐かしい映画を観て過ごした。
食べることも楽しかった。
最近の病院食は、よく出来ていておいしかった。
少しお金を出せば、違うメニューも食べることが出来た。
この病院には、コンビニもあるので、余り不自由とは感じなかった。
一人暮らしよりは、断然よかった。
「お薬の時間です」
看護師の声が廊下側の入口から聞こえた。
この病室は、四床の大部屋で看護師が順番に患者に応対する。
男部屋でいい歳になった大人ばかりの病室だったが、女性の看護師がくるとまるで子ども帰りしたのではと思えるくらいはしゃいでいる声が嫌だった。
私の番がやってきた。
「カーテン開けますね」
看護師は、何やら沢山入ったカートをベッド脇に止めると外窓の厚めのカーテンを開けた。
「いい天気ですね。はい、体温計」
明るい笑顔で体温計を渡し、私の顔を覗き込んだ。
「よく眠れていますか?」
バインダーを見て、薬を確認しながら言った。
「寝ていると思うのですが、目を覚ますときに声が聞こえるのです」
看護婦は、バインダーをカートの上に置いて、私の顔を確認する。
「……声ですか?」
「耳元でささやくように、”ハナサナイデ”って言われるのです」
看護師が眉間に皺を寄せた。
「少し話しましょうか」
私と眼の高さを合わせる為に、ベッド横に椅子を持ってきて座った。
「いつから聞こえるですか、その”ハナサナイデ”って」
「この病室に移ったころだと……」
「入院生活が詰まらないとか?」
「入院は私が決めた事なのです。
こんな病気を患ってしまって、妻や子どもは、家で看病すると言ってくれたのです。
でも、家族の貴重な時間を私の為に使わせるのは、実にもったいないことだと思ったのです。
看病する時間を別の自分を楽しむ事に使ってほしいと。
妻は最初「何を言っているの?」と言っていたが、私の考えを理解してくれたようです。
その方が、私は気が楽でした。
家族には、これまで私が思ったことをしてやれなかったと、心のどこかで自分を責めていた。
だから、私から家族を開放させたかったのです」
「ご家族をあなたから、放したのですね」
「そうです。それがお互いのためだと……」
看護師は、バインダーに何やら書き込んでいた。
「家族以外のことで、心にひっかかっているものはありませんか?
何でもいいです。どんな小さなことでも」
「過去のことは色々思いますよ、ずーっとここに居るのですから。
今、考えてみれば仕事ばかりの人生だったなぁと。
家族の為にと猛烈に仕事をしてきたが、それは独りよがりで、家族はそんなものは望んでいなかったと後から気付きました。
これも、家族の事になりますね。
家族以外で考えた事でしたよね。
そうだ、私は何をしたかったのだろうって考えました。
あの若くて就職なんかまるで考えなかった頃、私は何を考えていたのだろうと。
”絵”なんです。
私は、画家になりたかったのです。
小さな頃、大人たちが絵を褒めてくれて、嬉しくて、嬉しくて、私は画家になりたいと思っていました。
でも、歳を取り、いつの間にか諦めてしまった。
私は、この手に掴んでいた夢を離してしまった」
「夢を離してしまった……」看護師が呟きながらメモしていた。
「それから……、私には誰にも言っていない秘密にしたいたことがあるんです」
看護師がバインダーから眼を私の顔に移した。
「その秘密というのは……」
「何をしているのですか!やめて!それ以上話さないで!」
年配の看護師が私の話を遮った。
そして、私の話を聞いていた看護師の手を掴むと病室から出て行った。
私は唖然として、二人の看護師の後ろ姿を見送っていた。
「助かったね」
声のする方に眼をむけると、それは向かいのベッドで寝ていた老人だった。
老人は、きょとんとする私に話を続けた。
「この病室には、変な噂があってね。
”ハナス”という話を三つ続けると亡くなるらしい」
と言って微笑んだ。
どうやら、私は助けられたらしい。
私の心のどこかで、”もういいか”と思っていたのかもしれない。
だけど、私の耳元で「ハナサナイデ」と囁いたのは誰だったのだろう。
窓の外に眼をやると、そこには、青い青い空が続いていた。
ハナサナイデ リュウ @ryu_labo
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