杏野屋の響き〜はなさないで〜
水長テトラ
杏野屋の響き〜はなさないで〜
あるところに交際している男女がいた。
男はどうしても女と別れたくて、女はどうしても男と別れたくなかった。
ある日のドライブ中、とうとう女の方が泣き出して男の方は怒り出した。
険しい山道を走っている最中で、ガードレールのすぐ向こうは断崖絶壁。
やがてガードレールが切れてる場所にまで出たとき、助手席の女が身を乗り出して、ハンドルをめいっぱい傾けた。
男がブレーキを踏む間もなく、車は崖に一直線。そのまま崖下の湖に突っ込んだ。
「……という一品だそうだ」
俺の名前は
店主の杏野スズさんが持ち帰ってくる品物は風変わりなものばかりで、今日の黒いカチューシャも話を聞くと一層不気味に見えてきた。
「……どこが怖くない話なんですか。思いっきり死人が出てるじゃないですか」
「いや、この話には続きがあってな」
ところが男も女も死ななかった。奇跡的に二人とも車が湖に落ちる前に窓から投げ出され、奇跡的に木がクッションとなって受け止めてくれたおかげで軽傷で済んだ。
事故後(というか女による無理心中だから本来は事件にすべきだったのだが……)、女は憑き物が落ちたようにおとなしくなった。
償いの代わりに車の弁償代と男の治療費を支払うと、荷物をまとめて男の家から出ていった。
大変な災難だったが、結果誰も死ななかったし女とも上手く離れられて男はほっと胸を撫でおろした。しかしそれも束の間、男が毎晩変な声にうなされて不眠症になったのはその後すぐだった。
真夜中零時過ぎに、決まってそれは聞こえてくる。
「はなさないで……」
別れた女とそっくりの、か細い泣き声。
「はなさないで……」
最初男は女が嫌がらせでも仕掛けているのかと思い、電話で問い質そうとしたのだが、返事は「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」のみだった。
次に男は音の発生源をつきとめた。
それはベッドの下から聞こえてくる。恐々とベッドを動かしてみると、湖に浮かんでそれっきりになった筈の黒いカチューシャが出てきた。
即刻カチューシャを燃えるゴミに出して一安心……と思いきや、数日後
「はなさないで……」
男が飛び起きると、捨てた筈のカチューシャが寝室の床に転がっていた。
何度捨てても、バラバラに砕いて壊しても嘘のように蘇って家に戻ってくる。
男は疲れきって、スズさんに相談しにやって来た。
女の
「生霊?」
「依頼者の男性はそう言い張っている。せっかく離れられた相手の女性に自分から会いに行くのも癪だし、カチューシャが二度と自分のところに戻ってこないように厳重に封印してくれ、だとさ」
「封印……どうするんですか? 壺の中に入れて蓋をぐるぐる巻きに縛って南京錠もつけとく、とか?」
「いや、もっといい方法がある」
そして俺たちはシャンデリアに箪笥に化粧机に三面鏡にアンティーク品でひしめきまくった室内を飛び出して、スズさんの運転で湖にまでやって来た。
あのカチューシャが浮き上がってきたという湖に。
既に日は沈みきって、
「よし、このへんかな。コヨ君、ちょっと掘ってみてくれ」
「不気味すぎる……早く帰りたい……」
大学生の俺はまだ運転免許を持っていない。スズさんがいなければこの不気味な山奥から帰ることもできないので、渋々掘り進めると出てきた……人骨が。
「うぎゃあああああ!?」
即スズさんが警察に通報し、行方不明者の中から一人、照合が一致する女性が現れた。関係者の証言や死体と共に出てきた証拠等々から、女性の交際相手だった男が犯人と判明し、逮捕された。
殺害したのは約一年前。
別れ話がもつれて面倒になった末に殺害、山に埋めたと自白した。
「彼女の別れたくない強い念と、殺された死体の怨念が融合してあのカチューシャに宿った。彼女は執着を捨てられて良かったが、彼氏の方は巻き込まれて災難だったね」
「やっぱり怖い話だったじゃないですか……」
「まあまあ、おかげで殺人事件が解決できて良かったじゃないか。あのカチューシャは御遺体と一緒に
「ところで、スズさんが今頭につけてるのは……」
「ああ、このカチューシャ? 似合ってるだろう! 駅前の雑貨屋で買ったんだ。今度これに合う洋装でもしてみようかな」
俺にはあのカチューシャにそっくりにしか見えないのでやめて欲しいのだが……スズさんの笑い声に負けて、何も話せずじまいだった。
杏野屋の響き〜はなさないで〜 水長テトラ @tentrancee
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