花火とプラスチック量子
早山カコ
花火とプラスチック量子
僕が「生きる」を裏切れなくなったあの夏の日の夜空には、うんざりするほど大量の、むせかえるほどの火の花が咲いていた。
◆
僕は君が治らないことを知ってしまっていて、君も君が治らないことをもう分かっていて、それでも「あたしもう治んないんだ」とはじめて言葉にした君の声は震えていたから、やっぱりよっぽど怖かったんだなと、思う。
「あたしもう治んないんだ」
告げられた、神社の境内は蝉の声でひたすらうるさかった。夏草が好き放題生い茂って、青臭い金色の日射しが僕らを焼いていた。
君は笑顔を装って、これ以上ないほど泣きそうな顔をしていた。
僕は、僕もほとんど泣きそうだったと思う。鼻に詰まった情けない声で、
「しってた」
と返すのが精いっぱいだった。
じりじり焼けつく廃神社の石段、いつものその場所で、僕らはいつものように汗まみれの手を繋いで座っていた。君はクーラーのある場所には行きたがらなかった。君のからだに巣食った病魔が、君を否応なく寒くさせるから、クーラーなんかもう要らないんだよと言っていた。僕はだから、君に付き合える時間はずっと外にいた。
毎日、外出時間になると病棟から出てくる君と、病棟裏手の雑木林で落ち合った。延々とふたりで散歩をした。お気に入りのポイントはいくつかあって、その全部が、クラスのヤンキーの奴らは到底来ないだろうなという場所だった。
汗まみれの手を、ずっと繋いでいた。
君のてのひらは小さくて、柔らかくて、とても優しかった。そしていつも何かに怯えるように僕の手にしっかりとしがみ付いて、僕にはその感触がどうしようもなく脆く感じられたから、必ずぎゅっと握り返した。
いつも「あっちへ行こう」「今日はあれを見よう」とはしゃいで僕の手を引く君だったけれど、本当は君がずっと迷子で、手を引いていたのは僕の方だったのかもしれない。
背の高い夏草と青すぎる青空に閉じ込められたあの狭い世界で、君はいつだって暗い影に追われていた。
君のからだからは、プラスチックの匂いがしていた。
医療器具。繋がった沢山のチューブ、そこから君の中へと流し込まれる薬品。君の脈は、呼吸は、ほとんど常にプラスチック製のなにかによって把握され、プラスチック製のなにかによって促進されていた。君はそうしなければ命を保てない女の子だった。
プラスチックの匂いをまとう君に向かって、僕は何度も「大丈夫?」の質問を繰り返した。夏の烈しい日射しの下で、君が倒れてしまわないか心配で仕方なくて。けれど君は毎回ニッと白い歯を見せて、「平気だよ。■■■■といるときがいちばん良いから」と僕の名前を呼んでは笑った。
実際、僕といる間に君の体調が悪くなったことは、最後まで一度としてなかった。
馬鹿な僕は、君にそうやって名前を呼ばれる瞬間が、大好きだった。
君をずっと追っていた暗い影の正体が、死の影であることを知っていたくせに。
◆
ふたりで夏祭りに行った。
それがつまり、僕らのお別れの夜だった。その夜が君の最後の外出許可だと聞いていて、全部の意味を僕は分かっていた。
わかってたんだ。ひと夏、毎日を君と過ごした中で、日に日にはっきりと突き付けられていった。僕の手になつく君の指がだんだんと痩せていって、柔らかだった肌も輝いていた髪も少しずつ変わっていって、歩ける距離が僅かずつ減っていったこと、腰を下ろして休憩する回数が増えたこと。結論をはじき出すのはとても簡単だった。それでも、気付かないふりを続けていた。君は、僕の気付かないふりに気付かないふりをしていた。
変わっていく君が、変わっていくことなんて少しも疎ましくないほど、君に恋をしていたから。
君の薄いお腹にはっきり巣食った黒い大きな影が、僕には悲しくて憎らしくて許せなかったのだ。だって僕にはこんなにも見えているのに、全部代わってあげたっていいのに、何もしてあげられない。君を蝕んで膨れてゆく影が視界に入るたび、声を上げて泣きたいのを我慢して目を逸らした。君はきっと、僕が泣くのを何よりも望まなかった。
君が好きだった。初恋を君に奪われた。じゃれついてくる君のからだが不自然なくらい軽くなっても関係なかった。プラスチックの匂いがどうしようもないぐらい濃くなったって、笑った君が世界で一番かわいくて、一番きれいなのは絶対に変わらないことだった。
待ちかねた夏祭りの夜、君はキラキラ輝く出店の物をぜんぜん欲しがらなかった。はち切れそうにつやつやの大きなりんご飴を、嬉しそうに目を細めて眺めて、「見てるだけでお腹いっぱいになっちゃうからいいや!」なんて笑っていた。手が震えてうまくやれないからと、金魚すくいは僕のを後ろから見ているだけだった。僕があっという間にポイの薄紙を破ってしまったのが可笑しかったようで、君はしばらくコロコロと笑い転げていた。それから僕らは、人ごみの喧騒を抜け出して、いつもの廃神社の境内へ行った。
昼間の日射しで温められたぬるい石畳に、僕らはふたりきり寝転んで夜空を見上げた。
夜だというのに、未練がましく蝉がまだどこかで鳴いていた。青草がむっと香り立った。
どうでもいい話を、本当にどうでもいい話を、僕らはゆっくりとした。
だらりと四肢を投げ出して、やっぱり手は繋いだままで。半分も飲めていないラムネの瓶は足元の方に放置して。からだの下のぬるい石は硬くて、寝ているとあちこちが痛かった。でも、隣に君がいるなら何だっていいと思えた。
やがて、頭上に花火が上がり始めた。
「あのね、■■■■」
君が僕を呼んだ。夜空に咲きだした色とりどりの光に照らされて君が、僕を見ていた。
返事をしたくなかった。したら、お別れの儀式が始まってしまう。
「なに、□□□」
けれど僕は返事をした。不器用な声で君の名前を呼んで、君の次の言葉を待った。
遠くでうるさく、能天気に大きな音を響かせて何輪もの花火が上がった。
「好きだったよ。■■■■が大好き」
降りそそぐ大輪の光が君のうえに落ちた。やめてくれ、と言いたかった。
「こんなあたしに付き合ってくれて、ありがとうね」
光が揺らぐ、強まる。火薬の匂いが鼻をつく。混ざって君の、濃いプラスチックの匂い。
「ありがとうね。あたしに楽しい思い出をいっぱいいっぱいくれて、ありがとう」
連なる火の花は咲きやまない。色鮮やかな煌めきが、急に大人びて微笑んだ君をさらってしまう。どうして、どうして、イヤだよ、どこにもいかないで。
「……なんで泣いてるの。泣かないでよ……」
君はくしゃくしゃの顔で笑った。君の目尻にだって涙は光っていた。僕はそれとは比較にならないくらいグシャグシャに泣きながら、花火の音に負けそうなほど小さな声で、「僕も□□□が好きだよ」と何とか伝えた。君は僕の声をちゃんと聴き取って、頷いてくれた。
最後の花火が上がる。一番の大輪が、夜空目がけて駆け上がってゆく。
「■■■■、」
華開く光につつまれて、君は祈るように、僕に言った。
「生きてね。未来に行ってね」
思い出すのは、君の笑顔ばかりだ。
金色の陽射しの下に、仄かに涼しい木陰に、そして蒸し暑い夜に咲き乱れた光のさなかに。
夏の終わりの病棟で、十四歳で君はいなくなった。僕はやがて、閉塞したこの町を出た。
◆
君の墓前に花を供え、手を合わせる。いまさら君が僕の来訪を喜ぶのかは分からないけれど、ごくまれに帰郷するたびに、未だに僕は君を訪ねている。
君は今の僕を見たら、どう思うのだろう。つまらない、ちゃんと汚い大人になってしまった僕を、君は。君があの夏の夜に僕に祈ってくれた未来のかたちは、こんなふうでよかったんだろうか。
でも、僕はやっぱり「生きる」を裏切れなくて、死ねないから。
あれから幾つも別の恋を、あるいは恋のまがい物を繰り返してきたけれど、君にもらったあの言葉はどうしても消えてくれないままでいた。今でもふと、予期しない瞬間に君が顔を出す。日常の隙間にふっと、あの夏のうだるような温度、火薬とプラスチックの匂いが。
あの花火の夜は、紛れもない僕達の現実だった。
僕は立ち上がり、墓地をあとにした。首筋を汗の玉が滑り落ちた。出張のついでに寄っただけだったが、スーツは暑かった。今夜はこの辺りで小規模な夏祭りが開かれるとのことだったから、祭囃子の用意を目にしないうちに──立て込んでいる仕事を言い訳に、日が傾く前には新幹線に乗ってしまおうと思う。
花火とプラスチック量子
2022年1月版
早山カコ
花火とプラスチック量子 早山カコ @KakoSayama
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