佐藤凛

一話

僕はある意味憑りつかれているのですよ。幽霊だったならばまだ神社に行ってお祓いでも頼めばよろしいのでしょうけれどね、そうじゃないのですよ。僕は死の囁きに憑りつかれているのです。死の囁き。発現したのは確かもう半年も前の事だと記憶してますよ。僕は朝から酒を浴びるように飲んで昼間にはヘロヘロになって家に帰り、まだ昼間だというのに床に入り眠ろうとしてたのですよ。しかしながらね、人間何かをしようとすればするほど出来ないもので、床に入ったはいいのですけれど、いやに目が覚めてしまいまして、眠ることができなかったのです。ただ、もう僕は体を動かしたくなかったもので、手持無沙汰に布団の横に置いてあった本を適当に読み始めたのです。本はなんだっていいのですよ。僕は太宰治が好きなのでね、太宰治の短編集なんかをよく買って読んでいるのですけれども。その時何を読んでたかなんてのは覚えていませんよ。結局はなんだっていいんですよ。問題はそこじゃない。とりあえずは、寝転がりながら本を読んでいたということさえ説明できればいいのですから。そうですね、大体十五ページほど読み進めていたところでしたかね。耳鳴りのようなものが聞こえてくるのですよ。キーンと言うのか、サーというのか。どうも形容しがたい波長が鼓膜を震わしてくるのです。それが不愉快だのなんだのって感じなんですよ。まったくもう腹立たしい限りですよ。僕はね最初の方は耳垢だと思いましてね、耳掃除をしたのですがねまったくもって効果なし。何なら耳掃除をし終わるや否や、耳鳴りが激しくなるものだから仕方がない。僕はね、なけなしの金銭を持って耳鼻科に行きましたよ。耳鼻科の先生に症状を訴えて診てもらいましたけれどね、先生は耳には何も異常は見られないって仰るんですよ。それどころか最近はストレスというものが流行っているから恐らくそれが原因なんじゃないかって。精神科の招待状を渡されましたよ。僕はねそれが酷く腹立たしく感じたのですよ。僕がキチガイみたいに言われたように感じてね。実際そうだったのでしょうけれども。僕は受け取った紙をびりびりに破いて丸めて先生の横にあったゴミ箱に放り投げてやりまして、そのまま勢い任せに後ろのドアを開けて帰りましたよ。今思えばね、あの時素直に先生の招待状を受け取っておけばよかったんでしょうけれどね。あの時の僕はどうもそれが受け入れがたかったのですよ。


耳鳴りが死の囁きに豹変したのは帰りの途中でした。耳鼻科からの帰りですよ。僕は河川敷をわざと足音を立てながら歩いていたのですよ。僕の影がどんどんと伸びていきまして、僕の家まであと半分というところで耳に大きな衝撃が走ったのです。なんといいましょうか。糸が切れるとでも言いましょうか。ぷつんという大きな音が両耳に炸裂しました。僕はね思わず耳を押さえて流血を確認しましたよ。血液は流れていない。なんだと思いましたよ。この世には摩訶不思議なものもあるもんだと思いましたら、次ですよ。聞こえるんです。えぇ。囁きが。耳がむず痒くなるほどの小さな声で、まるでそこにいるかのように。僕はまた驚きまして、あたりを見渡しましたけれどね、いるのは川に泳いでいる鳥だけなのです。鳥が囁ける訳はないのです。僕は摩訶不思議なものに囁かれているようでした。声はね、女とも男ともとれない声ですよ。なんともいえぬ心地よい声なのです。その声は僕にこう囁くのです。

「貴方は十分に人生を全うしました。。天国に行きましょう。そこにロープが落ちているでしょう。それを拾って家に真っすぐにお帰りになって、ロープを天井にしっかりと固定して首を吊るのです。人間はこの死に方が一番よい状態で死ねるのです。ほらお取りになって。」

言われてみれば目の前には丈夫そうなロープが転がっていたものですから驚きましたよ。ただね、僕はまだ死にたかないんですよ。まだまだやり残したことが茶碗一杯、いや、丼一杯は残っているのですからね。僕は誰もいない虚空の道にボソボソと自分に向けて呟きました。

「お前がどこの誰だか知らないが、僕はねまだ死にたくはないのだよ。ましてや、他人に指示されて死ぬなんてのはまっぴらごめんだね。」

「そう、でも貴方本当はどうなのよ。本当にまだ生きていたいの?私にはそうは見えませんけれどね。」

「なんでお前にそんなこと言われる筋があるのだ。お前はまだ僕のことを何も知らないではないか。」

「いいえ、存分に知っておりますよ。私は貴方の心なのですから。貴方の心そのものでございますから分かるのですよ。」

「そんな訳はないだろう。僕は僕だ。お前など人生で一回も見たことがない。」

「それもそうでしょう。普段は貴方の心。いえ、私の心とも言えますけれど。心の中に隠れているのですから。ただ、今回ばかりは出てこなければいけなかったのです。」

「何故だ。」

「簡単なことですよ。貴方が死を望んでいらっしゃる。だから、私がお手伝いしようという訳です。」

僕はねだんだんと訳が分からなくなりましてね。頭が混乱してきてしまいまして、ロープをいつの間にか手に取っていました。

「それでいいのです。さて、早く家に帰りましょう。そして、自らの命を絶つのです。」

僕はふらふらと帰路に戻りまして、家まで歩き始めました。

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