愛の測定

猫煮

絶望の淵

 私が研究室の扉を閉めると、思いがけないほど大きな音が室内に木霊した。その音に、必然、研究室はにわかに騒がしくなる。ただし、騒いでいるのは私の研究を手伝う大学院生ではない。彼らと同等、あるいはそれ以上に研究にとって重要な者たち、すなわちアカゲザルたちである。


「荒れていらっしゃるようですね、先生」


 ウィスキーのボトルをコーヒー棚からひったくって、自分の机に向かう。机に座ると、半笑いの大学院生がレポートを手に話しかけてきた。思いがけず自分が苛立っていることに、その言葉が気づかせる。胸の苦い思いを自覚しながら、それを飲み下すように瓶を呷ると、眼の前の天板に置かれる紙の束。そこに書かれたアカゲザルたちの行動記録に目を通しながら、大学でのことを思い返す。書かれた内容には満足しながらも、同僚の言葉が脳裏に浮かぶことで眉間にシワが寄るのを感じた。


「セミナーは納得いきませんでしたか」


「ああ。あの『ネズミ学』者たちは、相変わらず母親が子供に与えるものが母乳だけだと信仰している。しかし、孤児院の子どもたちを見れば、生育過程における親の包括的な必要性は明らかだろうに」


 同僚の盲信しきったその目を思い起こすたびに、私は鬱屈した思いに囚われる。


 その同僚曰く


「欲求と報酬という観点から言えば、乳幼児が母親に要求することは生命を維持するための食料の供給であり、母親は自らの形質を存続するための個体である幼児への先行投資として授乳を行う」


 そうだ。


 この考えが間違っているとは主張しない。しかし、どうしてこの考えのみで哺乳という非合理的な手段や個人以上に存続を期待されるコロニーという不思議な系を説明しようとするのだろうか。ましてや、個体としての独立性の成熟、すなわち自立心の確立には接触が有害であるという考えに至るのは大風呂敷にも程がある。生物についての実験と言いながら、マウスばかり扱っているために、人の心がわからないのだろう。


 あまつさえ、子供を母親から離して養育するべきだと考えるのは明らかに間違っている。確かに、衛生学的に見れば感染症リスクが上昇することを否定できない。しかし、母親から引き離された子供がどのような状態に陥るかは多くの観察がある。どの子どもたちもうつ状態のような無反応状態に陥るのだ。はたして、これが正常な発育と言えるだろうか。


 お大事に、と言って自分の机に戻っていく大学院生を尻目に、ネズミ学者達に植え付けられた不快感をウォッカで洗い流す。いや、これはウィスキーだっただろうか。


 瓶のラベルを確かめるようと、ボトルを回して眼の前にかかげる。すると、茶色く色がついたガラス越しにアカゲザルの子供と目が合った。ウィスキーの琥珀色とガラスの二つを通して完全に茶色く染まった、その歪んだ像は繁殖コロニーでみるアカゲザルの子供とは全く違った様子に見える。


 瓶を通さない裸眼で見たその子供は手に紙おむつを握っていた。子ザルが好奇心から様々なものを掴む光景は特段珍しいことではない。奇妙なのは、同じケージに入れられた母親に見向きもせず、まるで紙おむつが母親であるかのように振る舞っていることだった。


「君、この四十二番の子ザルは紙おむつを握っているようだが、いつもこうなのか?」


「ええ、どうも社会性が低いようで。母親に見向きもせず、紙おむつを手放さないので我々も困っています。」


 先程レポートを渡しに来た学生に尋ねると困り顔で答える。


 我々は数ヶ月前から、アカゲザルの子供で構成された集団を育成していた。彼らに施すテストにおいて、親個体の学習を子どもたちが継承しないようにするためである。そのためには、過保護な母親から隔離する必要があった。しかし、複数の子サルを同時に育てたことで社会性は育まれているはずである。


「他の子ザルもこうなのかね?」


「いいえ、こいつが特に手放さないだけです。まあ多少物を握る遊びは増えますが、子供だけの集団育ちですしね。それ以外はおとなしいものですよ」


「おとなしい?」


 学生の説明に違和感を覚える。寝ている状態ならまだしも、この年齢のアカゲザルの子供ならば活発に動き回るはずであるからだ。しかし、言われてみればこの研究室はアカゲザルの個体数に比べて異常なほど静かすぎた。心の片隅が疼き、並べられたケージに駆け寄る。


 ケージの中を覗き込んでみると、『おとなしい』子ザルたちが身を縮こまらせていた。


「どうしたんですか、ハーロウ先生?」


 先程まで話していた学生が近寄ってくるが、何を話しているのかすぐには理解できないほど私は興奮していた。この子ザルたちは母親を知らないサンプルである。そのグループが総じて社会性を欠いた行動を取る、これはつまり、母親が子供に与える『母乳以上のなにか』が欠如していることを示唆しているのではないだろうか。


「君、母ザルを準備しようじゃないか」


「母ザル?テストも終わってますし、そのケージに一緒に入っていますが」


「ああ、この子達にではないよ。これから生まれてくる子ザル達にだ。ただし」


 首を傾げる学生の肩に片手を置いて興奮を伝える。おそらく、これから始める実験は最も重要なことを証明することになるだろう。


「針金と毛皮で作った偽物の母親だ」


 このときの、学生の目を私は生涯忘れまい。


 怪物を見るような彼の目をだ。


 だが、それは私にとってもはや些末なことだった。日曜日に教会で語られ、若い男女が夜に密やかに語り合い、親が子に事あるごとに語り聞かせ、言わずとも与えられていたことを自らが親となって初めて知り、老いて尚言葉より先に溢れる物。そして、母親が子供に最初にあたえる物、愛。


 これまでの心理学では愛は夢幻のように掴みどころのない概念であると考えられていた。そして、心理学が科学として認められるためには実際に測定できるもののみを扱うこと、つまり愛のような漠然としたものは扱わないことが求められていた。しかし、このサルたちの様子はどうだ。彼らは親の愛の欠如が何をもたらすのかを今まさに伝えようとしているようではないか。


 ついに科学が愛を証明する可能性に、心は若者に戻ったように跳ねていた。


 さて、その気付きから数週間。我々が最初に用意したのは、木とワイヤーの骨格に布の毛皮を被せ、哺乳瓶を装備させた代理の母ザルであった。この『母親』は子ザル達を満足させるに足るものと見え、彼らは実によくこの『母親』に懐いた。


 ここで疑問となるのは、この『母親』の何が子ザル達を魅了したかである。そこで、私達は新たに二体の『母親』を用意した。一体はワイヤーの骨格のみのワイヤーの母、もう一体は布で覆った毛皮の母である。


 ここまでの実験で、子ザル達は毛皮の母の方を好むことが解っていた。では、ここに報酬を加えよう。ワイヤーの母にだけ、哺乳瓶を持たせるのだ。もしも、母子の間にある絆が給餌によるもののみならば、子ザルたちはワイヤーの母の元へと向かうだろう。だが、そうならないのであれば。その結果がこれから解る。


「始めなさい」


 私の合図と共に、一匹の子ザルが解き放たれる。腹を空かせた個体だ。彼は二体の母親をしばらく見比べていたが、やがて立ち上がると一体の母親の元へと向かった。その光景に私は酷く落胆した。彼が向かった先がワイヤーの母だったからである。やはり、親が子に与える愛は環境によって育まれるものなのだろうか。


 だが、彼は私に素晴らしい贈り物をくれた。哺乳瓶からミルクを飲み終わった彼はワイヤーの母から離れると、毛皮の母の元へと向かい、抱きついたのだ。しかも、彼はミルクを飲む以外のすべての時間を毛皮の母と過ごしたのである。このことは子ザルは母親の毛皮の感覚を必要としていることを示していた。そして、この結果はどの子ザルにも見られる傾向であったのだ。


 この結果に、我々は歓喜した。あの、私に四十二番の異常を教えた学生ですらだ。食事以外に子供が必要とするものがあることの、なんと尊いことだろうか。私は自分が、主が祝福された清らな光の中にいることを自覚した。そして、主が確かに声ならぬ声で私に申し遣わしたことを聴いたのだ。「愛をお前の最も得意とする言葉で示しなさい」と。


 私はその声に従うために、ワイヤーの母と毛皮の母のそれぞれのみで育った個体がどのように愛を得られず、愛を得るのかをまずは三ヶ月観察することにした。この実験に、何人かの学生は抵抗を覚えたようだったが、愛の源を探るために必要なことである。


「先生、これまでの結果でも接触の必要性は十分理解できるのではないでしょうか」


 例の生徒が私に質問した。しかし、彼は重要なことを見落としている。


「駄目だ。接触によって子ザルが何を得るのかを知らなくては、子ザルが好みによって行動したのか、必要性があって行動したのかの区別が付かない」


 その言葉に、彼は渋々ながら納得した。そして、我々は母が子に与える愛について理解できると期待されたのだ。


 しかし、この観察の結果は、意外なものであった。


 母ザルの感触を得られなかったサンプルはまったく精神に異常をきたしていた。体は常に小刻みに揺れ、自らの毛をむしるなどの自傷行動を取る個体もいた。これは母親の感触が子ザルの精神の安定に必要であることを明らかに示している。それを支持する様に、この個体群は消化不良を起こす子ザルが多く、最終的に全ての個体が死亡した。


 ところが、もう片方の母乳を出す毛皮の母のみで育ったサンプルにも異常が見られたのである。彼らは無気力で、欝気味に見えた。そして、こちらのサンプルにおいても、殆どの個体は成長することなく死亡してしまった。


 この一見奇妙な現象は我々に重要な知見を与えた。すなわち、子が母から受け取ろうとするものだけでは正常な生育に不十分である、ということである。子ザルが母ザルを親として慕うように、母ザルが子ザルを愛して抱きしめることもまた必要だったのだ。能動的な親からのアプローチもまた、子ザルの生育に必要だったのである。


 この互いが互いを必要とする小さな系のなんと美しいことか。些細な仕組みにすらも神の愛が存在することに息が詰まりそうになる。


 しかし、ここで次の問題が見出された。それは、小ザルはどのようにして母ザルを慕うのかということである。


 そこで、我々は「開放空間テスト」を行うことにした。このテストは子ザルたちを彼らにとっては未知の物体が存在する環境に置き、彼らの反応を観察するテストである。


 このテストにおいて、面白い現象が観察された。子ザル達は彼ら単体で新しい環境に置かれた場合、恐怖で身を縮こまらせ、防御姿勢を取っていた。ところが、母親がいる場合、彼らは恐怖を感じるようではあったものの、何度となく母親のもとを離れ、活発に動き回っては母親のもとに戻ることを繰り返した。物体が攻撃的である(主に騒がしいテディベアを用いた)場合には、攻撃行動をみせる個体すら居たのだ。そして、この傾向は回数を重ねるごとに強くなっていった。


 しかも、この行動は母親が木と針金と布で作られた偽の『母親』であっても観察されたのである。このことは、子ザルが社会性を育むために必要な外界への好奇心は母親によって与えられるある種の「安心感」を前提として発揮されることを示唆していた。


 これらの観察から、我々は以下のように結論づけた。すなわち、「幼児の生育にとって最も重要なものは、看護によってもたらされる頻繁かつ親密な身体的な接触の快適さである。この要素が愛情反応の発達に圧倒的に重要であり、一方で授乳は無視できるほどに影響が小さい」ということである。


「君、我々はついに、最も重要な要素を科学に取り込むことに成功した」


 私に気付きのきっかけをあたえた学生に、私はこの偉業を分かち合おうと声をかけた。しかし、一方の彼は困り顔で曖昧に笑うだけであった。私が考えるところによれば、彼は物事を観察する力には長けているが、一方で物事を想像する力が欠けているようである。


「愛だよ」


 私は万感の思いを込めて語ったが、彼は相変わらず曖昧に笑うばかりだった。そのことに酷く不快感を感じたが、同時に、愛について興味を持たない者の価値観はこういうものであると納得もした。


 そこで、彼の理解を得ることには見切りをつけ、次の年次大会での演説のための原稿をまとめる作業に入ったのである。


 さて、私がこの結果を大会で話すと、多くの論争が起こった。例えば、生育における重要度を過剰に見積もっていないかという点や、さらには、ヒトとサルでは接触の生存における重要性が異なるであろう点などが論争の種になった。


 しかし、私はそれらの論争よりもアカゲザル達の生育に強い関心を持っていた。私を批判する者らも、接触が幼児期の成長に必要である点については合意している。であるならば、この接触を求める要求はどの程度まで子ザル達を支配するのであろうか。


 そこで、私は新しく入ってきた学生たちに「スウィング・ママ」の作成を命じた。つまり、子ザルたちは母親から振り落とされるような圧力に、どの程度まで耐えようとするのかを確かめようとしたのだ。その結果、思いもしなかった結果がもたらされた。なんと、子ザルたちは動かない母親よりもスウィング・ママを好んだのである。


 この結果に我々は困惑した。安全性を求めるならば、不安定なスウィング・ママよりも静止した母親を選ぶはずである。ならば、子ザル達は何の欲求によってスウィング・ママを選ぶのであろうか。この問題に我々は長い間頭を悩ませた。


 この問題に解決の糸口を見つけたのは、意外なことに「四十二番を観察した学生」であった男である。私の元を卒業した彼はしばらく別の研究所にいたが、つい最近私の勤める大学に戻ってきていた。彼はスィング・ママと動かない母親のそれぞれに育てられたサンプル達を比較すると、私にこう質問した。


「彼らが成長したあとの記録はないのですか?」


 それを聞いて私は自分の浅はかさに恥じ入った。親子の間に存在する恒久的な愛に着目しておきながら、ある一時点での行動にのみ焦点を絞っていたからである。私に啓蒙を与えた彼に礼を言うと、私達は子ザルたちのその後について検査を行った。すると、極めて面白いことが判明した。


 なんと、スウィング・ママに育てられた子ザルは動かない毛皮の母に育てられた子ザルに見られるような異常な行動、すなわち自閉気味で社会性を欠いた行動を取っていなかったのである。スウィング・ママに育てられた個体は、もはや自然に育った個体と見分けがつかないほどにアカゲザルらしい行動を取っていた。


 この精緻に作られた愛情系の見事さと言ったら!子ザルが母ザルに愛情を求めると、物理的、あるいは精神的な負荷が母ザルにかかる。しかし、その負荷に対する反応とも言える「ゆらぎ」が、子ザルの生育を完全にするために必要だったのである。これは誠に自然の優雅さというほかない。


 しかし、この実験で一つの事実が我々を困惑させた。スウィング・ママに育てられた子ザルはほぼ完璧なように見える。しかし、スウィング・ママが揺れているのを見ると、飛んだりはねたりと、他のサル達がやらないような突飛な動きを始めるのだ。


 このことは、完全な社会性の獲得には単一の要素のみが関わるのではなく、様々な要素が相互作用することによって社会性が形成されることを示唆して見えた。


 そこで、私は学生たちに新しい母親の作成を命じた。その母親は「モンスター・マザー」である。モンスター・マザーたちは凄まじい振動により子ザルを振り落とすものや、圧縮空気を浴びせるもの、バネで弾き飛ばすものや、胸に仕込んだ先の丸まった杭で不意に突き刺すものを用意した。彼女らを作成することに何人かの学生は不快感を示したが、必要性を説明すれば皆納得した。


 我々はこのモンスター・マザーが子ザルの親離れについての知見を与えることを期待していた。ところが、彼女たちがもたらしたものは全く別の、そして思いもしなかったことだったのである。


 なんと、モンスター・マザーを与えられた子ザル達は、モンスター・マザーから与えられた暴力をすべて許し、何度でも抱きついては信頼を見せたのだ。しかも、この実験によって、子ザルたちは多少神経質になったものの、精神的な異常を全く見せなかったのである。


 この結果は親が子に与える接触による愛が、いかに強力なものであるかを示していた。しかし、このことは同時に子が親に対して恐ろしいほどに無防備に自分の安全を委ねていることをも示している。すなわち、すべての子は同じように母を愛するが、それが必ずしも母からの子に対する愛を保証するものではない、ということであった。


 この観察によって、私の次の興味は母ザルの愛情はどこからもたらされるのかということに移った。愛は生命そのものに書き込まれているのか、社会的な規範として発明されたものかということを知らなければならない。そのために、我々は生きた母親を知らない、偽物の母親で育ったメスのアカゲザルと通常のオスの交配を試みた。しかし、偽物の母親で育ったメスは社会性の欠如によってオスとの交尾にまで至ることはなかった。


 そこで、私は学生にメスを拘束する器具を作るよう命令した。そして、そのマシンを「レイプ・マシン」と名付けた。レイプ・マシンは固定したメスをオスに受胎させるマシンである。この命令を聞いた生徒は私のことをかつて見た覚えの目で見ていた。怪物を見る目である。


 しかし、必要性を理解していたのか、生徒は十分な仕事をした。そうして、何匹かのメスを妊娠させることに成功した。


 この母子の観察は我々に面白い知見を与えた。多くの母ザルは生まれた子ザルに興味を示さず、養育行動を行わなかった。このことは母ザルの愛情が生得的なものでないことを示唆している。そして、更に興味深いのは、何匹かの母ザルはサトゥルヌスのように自分の子供を頭からかじったことである。このように、子を養育しないばかりか敵対的な行動すら取る傾向は人間世界においても容易に起きることである。


 このことは、私に神が我々に与え給うた愛の普遍性を思い起こさせた。


 そして、この最大限に邪悪な母ザルたちの様子は抑鬱状態にある人間の絶望の井戸の底にいる様子を幻視させた。そこで、私はサル達にさらなる無力感を与えることにした。


 必要な装置は単純である。まず、小猿が辛うじて座れる程度の大きさの空間を確保する。次に、その四方を傾斜の付いたマジックミラーで覆い、漏斗状に囲う。極めて滑りやすいその壁は、サルが外に出ようともがいても逃さず、大変な労力を費やして頂上まで登ってもそこには網がかけてあるため外に出ることはできず、一瞬外の景色を見た後に滑り落ちることになる。


 わたしはこの装置を「絶望の監獄」と名付けることにした。


 もはやよく見知った「彼」と同じ視線に晒されながらこの装置のことを生徒たちに説明すると、皆一様に眉をひそめた。そして、ある生徒が私にこう言った。


「絶望の監獄という名前を聞けば、大学の役員はどんな反応をすると思いますか」


 その質問は全く本質的ではない。しかし、同時に社会性を持つ生物であるヒトとしては真っ当な意見である。そこで、私はこのV字型装置の名前を少しぼかして「絶望の淵」と呼ぶことにした。だが、このV字型の装置の名前が何であれ、重要なのはどのような結果がもたらされるかである。


 はたして、この装置は我々の想定通りに働いた。この絶望の淵に陥ったサルはたとえ元がどんなに正常で幸福なサルであっても、装置の底でうずくまるようになった。サル達はわずか数日ほどで自らが絶望的な状況にあることを自覚し、異常なサルになって装置から出てきた。このことは、社会性を持っていたサルが隔離された状況によって如何に破滅的に変化するかを明らかに示していた。


 このサルたちの様子は社会を通じてやり取りされる愛を失った者が、どれほどの絶望を得るかということを私達に教えるように見える。ヒトで言うならば、まさにうつ病を発症した状態と言えるだろう。


 美しい世界にいたサルが隔離され、すべての無力感によって自分の無価値さを思い知る姿は、愛する妻を癌で無くし、絶望の淵にいる私自身に重なって見えた。


 我々が観察する中、サル達は今日も絶望の淵を登り、そして滑り落ちていく。その瞳が無力感に染めきられるまで、何度も、何度でも。


 私が彼らから得た最も重要な観察の結果は以下のことである。


「生き方を学ぶ前には、愛し方を学ばなくてはならない」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

愛の測定 猫煮 @neko_soup1732

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説