彼が煉瓦色の革の手帳を閉じるとそこには一人の少女がいて彼のことを
葛西 秋
彼が煉瓦色の革の手帳を閉じるとそこには一人の少女がいて
彼が煉瓦色の革の手帳を閉じるとそこには一人の少女がいて彼のことをじっと見上げていた。
彼にとっては見覚えのない少女だった。
背中までとどく金色の長い髪。青緑色の瞳。青いサテンのドレスに白いエプロンを付けたその姿はまるで西洋人形のようだった。
彼は五十歳を過ぎていたが、これまで典型的な西洋人形というものを実際に見たことが無かった。目の前の少女は彼が知識として記憶している西洋人形そのままの姿だった、ということもできる。
――はなさないで
不意に少女が言葉を発した。きれいな日本語のイントネーションだった。驚いて思わず取り落としそうになった手帳を彼は慌てて両手でつかんだ。
煉瓦色の革の手帳は中のノートを差し替えることができる。長年彼はこの手帳を愛用してきたのだが、そろそろ新調しようかと考え始めていたところだった。今さら落として汚れることを惜しむようなものでもなかった。
――離さないで
少女はそういってほほ笑んだ。
背中までとどく金色の長い髪。青緑色の瞳。青いサテンのドレスに白いエプロン。まるで西洋人形のようなその姿に見覚えは無かったけれど、その微笑は彼の記憶の彼方に確かにあった。
どこかで。
彼はすがる思いで手に持っている煉瓦色の革の手帳を見下ろした。
――放さないで
少女はそういって、今度はやや寂し気に微笑んだ。
煉瓦色の革の手帳。彼はようやくこの手帳をどこで手に入れたのかを思い出した。
三十年ほど前のことだった。
その頃大学生だった彼は、長い夏休みの間にイギリスの古い町を訪れた。外国からの観光客など一人もいない地方の古いその町で、彼はこの手帳を買ったのだ。
学生の貧乏旅行にしては手痛い出費だったのだが、気づいたらこの手帳を手に取っていた。
古い石造りの店舗には午後の金色の光が一筋差し込んで、壁に掛けられていた青いドレスの女性の肖像画を浮かび上がらせていた。
――連れていって
彼の耳元で、誰かの囁く声がした。若い女性の声だった。
慌てて周囲を見渡してみても狭い店内には彼と店主の姿しかない。
その店主の親父の鋭い視線に耐えかねて彼は財布中の紙幣をかき集めてその手帳を購入した。
――ありがとう
手帳を手にして店を出た瞬間、彼の目前に青緑色の瞳に背中までとどく金色の長い髪、青いサテンのドレスの女性の姿が茫洋と浮かび、直ぐに午後の日差しの中に溶けて消えた。
一度は手放していた記憶が彼の頭の中に鮮やかによみがえった。
――話さないで
背中までとどく金色の長い髪、青緑色の瞳、青いサテンのドレスに白いエプロンを付けた少女はいたずらっぽくほほ笑んで、白く細い指先で彼女自身の唇に軽く触れた。
はなさないよ。
彼は心の中で少女に話しかけると、そっと指先で自分の唇に軽く触れた。
周囲の目から彼の姿は口元に手を当てて何か考え込んでいる初老の会社員に見えただろう。どこにでもいるような。
けれど少女と約束を交わしたその瞬間、彼の頭の中にはあの夏のイギリスの古い町が、草原が、ただ、ただ無限に広がっていたのだった。
彼が煉瓦色の革の手帳を閉じるとそこには一人の少女がいて彼のことを 葛西 秋 @gonnozui0123
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