秘密
森陰五十鈴
内緒にしてね
春の気配が浮き立ちはじめた庭。ほんの少し緑が混じるようになった黄色の芝生の上にしゃがみ込んでいたヘリオスは、
猫のこっそりした様子が気になったヘリオスは、手に持った模擬剣をその場に放置し、腰を上げた。猫の後を追う。
猫は、門へと続く道の脇に咲いている水仙に身を潜めるように歩いていく。敷地の外へ行こうとしているのを知って、ヘリオスは猫に声を掛けた。
「……何をしてるんですか?」
水仙の間で、魔法に掛けられたかのように、ぴた、と猫の動きが止まった。足を踏み出した格好のまま、長い尻尾を真っ直ぐに天に伸ばして。
がちがち、と軋む音が鳴りそうな動作で、振り返る。
「…………ヘリオス」
猫が喋った。
――のは、今更驚くべき事態でもなかった。なにせこの猫、ヘリオスの母が化けたものであるからして。
身体が弱く儚げな印象のある母ジュディスは、身に余るほどの魔力の持ち主で、その魔力を発散させるために度々猫に変身することがあった。
「出掛けるんですか?」
低く這うような声で、ヘリオスは母に尋ねる。アッシュブロンドの髪の下から緑色の目で猫を見下ろす様は、十二歳の少年らしからぬ凄みを伴っていた。猫――否、ジュディスは身体を震わせる。それから、人の姿なら身を地面に投げ出すような勢いで、
「お願い! お父さんには内緒にして!」
息子と同じ緑色の目を見開いた母を、ヘリオスは冷ややかな目で見下ろした。猫の姿で邸を抜け出そうとしていたくらいだ。父――ジュディスにとっては、夫――に知られたくないのは察しが付いていた。
問題は、何故こっそりと出掛けようとしていたか、だ。
ヘリオスは猫の前にしゃがみ込む。
「なんでです?」
「それは……」
ジュディスは気まずそうに視線を泳がせた。人間味のある表情を猫がしても、笑いしか込み上げてこない。
ヘリオスは唇だけ笑みを作り、少し俯いて、窺うように母を見つめた。
「黙ってたら、何してくれます?」
ジュディスは息子と同じ色の猫目を瞠り、それから呆れたように溜め息を吐いた。
「……あなた、誰に似たの?」
絵に描いたような堅物の、父ではないことは確かだ。
ヘリオスは交渉の末、母が出掛けるのに協力することにした。家の使用人に一人で出掛けてくることを伝え、灰猫を抱えて、敷地の外に出る。
貴族のタウンハウスが集う住宅街。人気のない路地で、母は変身を解いた。藍色の長い髪を結い上げた色の白い貴婦人が佇む。微風に靡くミント色のワンピースはちょっとしたお洒落着で、街を歩くつもりであったことが明らかだ。
「お買い物にね、行きたくて」
商店街へ向かうジュディスは、息子に懇願していたのが嘘のように、弾んだ声で目的を語った。成り行きとはいえ息子と出掛けることになったのが、楽しいらしい。秘密を共有しているというのが、輪をかけているのかもしれなかった。
「買い物?」
対して、ヘリオスは拍子抜けした気分だった。ただの買い物であれば、別に隠す必要もないではないか。ジュディスに散財癖はなく、買い物は特に咎められていない。
「そう。グレアムにね、何か贈り物がしたくて」
ヘリオス眉を顰めて首を傾げた。父グレアムの誕生日は遠く過ぎているし、何かの記念日があるわけでもない。祝い事もない。贈り物をする理由が見当たらないのだ。
「最近、お父さんお仕事大変でしょう?」
父グレアムは、アクトン伯爵家の当主だ。領地経営はもちろんのこと、この首都にある魔法師学校の理事も務めていた。首都に滞在していたこの冬は、主にその学校の理事の仕事に注力していたはずだ。
確かに、とヘリオスはここ最近の父の様子を振り返る。理事会で、学校経営について意見が対立しているのだと聞いていた。それで決めるべきことがなかなか決まらないのだと。
「それだけじゃなくてね、領のほうもこの冬に問題が起きてるでしょう?」
「ああ。秋の魔物騒動の余波があったとか」
「そう。それで、家に帰ってからも仕事ばかりで、気の休まるときがないみたいで。ずっと眉間に皺を寄せているの」
そうしてジュディスは自分の眉間を指で叩く。が、父は普段から眉間に皺を寄せているような人間なので、ヘリオスは父の様子の変化にはあまり気付いていなかった。
「だからね、グレアムの気が少しでもほぐれるようなものでも買ってあげようかな、と思って」
夫婦愛か。自分が関わったのが
「歌でも歌ってあげればいいのではないですか?」
ジュディスは楽器演奏を得意としていた。それに併せ、歌も歌う。実力は一介の演奏家並みにあるらしいし、父も母の歌を気に入っている。
「それも考えたのだけれど、仕事の合間に使える物が良いかなって」
それで買い物に行くことにしたらしい。
ヘリオスとしてはそれこそ父に訊けば良いと思うのだが、父は遠慮するし、そうでなくても驚かせたいから秘密で用意したいのだ、とのこと。
「サプライズも気が晴れるでしょ?」
そうだろうか。ヘリオスは首を傾げる。母の言うことは理解できなかったが、本人は楽しそうだし、まあ良いか、と思うことにした。
「ヘリオスも協力して」
ジュディスは、歩きながらも器用に顔の前で両手を合わせて、ヘリオスに懇願する。
「分かりました。……菓子を買っていただく約束ですし」
ジュディスが邸を抜け出すのに協力する見返りを、ヘリオスは要求した。それが、菓子だ。ヘリオスは甘いものが好きで、街に行く母にお土産を要求したのだった。
「ああ、でも、父上には話さないでくださいね」
母に
父の真面目さと息子の
「ええ。私とあなたの秘密。ね?」
ヘリオスの助言の末に母が選択したのは、コーヒーだった。香り高く、味わい深い。仕事の最中にも飲めて、父も好んでいる。
邸の前で再び猫に変化したジュディスは、店で厳選した豆をヘリオスに託し、先にひっそりと家の中へと戻っていった。ヘリオスは母に買ってもらった自分への土産と一緒に贈り物を抱え、正面の扉から堂々と邸の中に入る。
と、エントランスで、父と鉢合わせた。
ヘリオスは、慌てて二つの包みを背後に隠す。
父グレアムは、アッシュブロンドの髪の下から海色の目を眇めて息子の奇行を見つめた後、帰ったか、と声を掛けた。ヘリオスが出掛けていたことは、使用人を通じて知っていたのだろう。
「ジュディスと出掛けていたのか?」
――バレていた。
ヘリオスは、頭を抱えることができないかわりに、項垂れた。
「……どうして」
「窓から、お前が
母の隠密行動は、はじめから失敗していたらしい。ヘリオスは乾いた笑いを溢すことしかできなかった。同時に、父が母を叱りに行くことを警戒する。堅物な父と気まぐれな母の組み合わせの所為か、この家ではわりと見られる光景ではあったが、それに自分が関わっているとなると少し気まずい。
だが、ヘリオスの予想に反して、グレアムは肩を竦めただけだった。
「……まあ、あいつもたまには気晴らしが必要だろう」
ヘリオスは目を
「この冬は、気を張らなければいけないような外交が多かったからな。ジュディも気が抜けなかっただろう」
そうなのか。ヘリオスは、左上方の天井を見上げた。その方向には、母の部屋がある。ヘリオスはまだ子どもなので、パーティーに出ることがあまりなかった。茶会や夜会で母がどう過ごしているのか、知る機会があまりないのだ。
あの母も苦労しているのだ。のびのびと店を巡っていた様子からは、そんなことは窺えなかった。大人の社会は大変なのだ、と知る。
「だからまあ……観劇にでも誘おうかと思ったんだが」
無駄だったか、とグレアムは肩を落とした。厳格な父が落胆しているのを、ヘリオスは奇妙な気分で見上げる。なんというか……我が親ながら、可愛らしい。
「喜びますよ。きっと」
父が大好きな母だ。一緒に出掛けられるとなれば、大喜びするだろう。きっとそれが何処であっても。
そうか、とグレアムは小さく笑みを溢す。
「なら、今晩誘ってみよう」
父は少し浮かれているようだった。ヘリオスは苦笑する。それに、出掛ける余裕ができたようなのだから、母の気遣いは不要だったのではないだろうか。
しかし、ヘリオスは、背中の包みを隠したままにしておいた。ジュディスは、グレアムへの贈り物を楽しみにしていたのだ。何もヘリオスが台無しにすることはないだろう。
グレアムが踵を返す。仕事がまだ残っているらしい。玄関から真っ直ぐに伸びる石階段に足を掛けたところで、ヘリオスのほうを振り返った。
「ヘリオス。あまりお母さんに物をねだらないように」
こちらもバレていた。ヘリオスは身を固まらせ、引きつった声で返事をする。
とはいえ、予想以上に叱られなかったのだから、その点は安堵した。
「それから、観劇の件は話すなよ」
自分で話をするから、と言い残してグレアムは去っていく。
なんだ。似たもの夫婦か。
両親の仲睦まじさに呆れた息子は、溜め息を吐いた。
秘密 森陰五十鈴 @morisuzu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます