VなおれとNなオレ

菅吏とおり

第1話 引越前夜

 東京は意外と広い。一日に何百万人もの利用者がいる大きな駅もあれば、数千人の駅もある。そして数千人の利用者がいても、東京ではそこは立派な田舎だ。

 ひかるは東京の田舎から東京の都会へと旅立つ支度を進めていた。高校を卒業し、この春から都内の国立大学へ進学するためだ。自宅から通えないわけではない。特急を使えば一時間ちょっとで都内へ出ることもできる。新幹線で通勤や通学をしている人のことを考えれば十分恵まれているだろう。

 また親元から離れ下宿するとなれば、学費とは別に家賃などの生活費も余計にかさむことになる。せっかく親孝行で国立大学に入学できたのに、他のところで金食い虫になっていては元も子もない。

 ではなぜ、親元を離れわざわざ余計に金のかかる都会へ引っ越すことにしたのか。

 答えは簡単だ。金のかからない絶好のチャンスが舞い込んできたのだ。

「輝、ちょっと来て」

 階下から母の声がした。何だろう忙しいのに。

 輝は荷造りの手を止めて下へ降りて行った。輝の家は住宅兼店舗で一階では両親が和菓子屋を営んでいた。住居スペースと店舗とを分ける暖簾をくぐると母の杏子きょうこが手招きしてきた。

「これ、お父さんが新作を作ってみたの。コウちゃんたちに食べてもらいたいから一緒に持って行って」

「ようするに試食ってことね」

「いやね、お世話になるご挨拶よ」

「はいはい、そういうことにしておきますよ」

 輝は包装された箱を受け取ると二階へ戻っていった。出来立てなのかほのかに暖かい。どんな新作なんだろ…

「せめて味見くらいしたかったな」

 ま、いいか。康太こうたと二人で早速明日食べてみよう。

「ちゃんと感想きかせてよねぇ」

 階下から母の声が追いかけてきた。

「分かってるよ~」

 康太は輝の家の和菓子を気に入ってくれていた。きっと喜んでくれるはずだ。

 輝は美味しそうに和菓子を頬張る康太の顔を思い浮かべてクスッと笑った。

 康太は輝の幼馴染だ。幼稚園から中学まで一緒に過ごした。絵を描いたり読書をしたりするのが好きな輝とは対照的に、康太はサッカーや野球など身体を動かすことが好きなスポーツマン。まったくタイプの違う二人だったが、クラスが変わったり友達が増えたりしても気づくといつも一緒にいた。

「あ、」

 整理していた荷物の中からアルバムが出てきた。開いてみると輝の子供の頃の写真だった。産まれたばかりの輝を抱いている杏子、父の輝明てるあきがいないいないばぁっ!をするのだが、その顔が怖すぎて泣きじゃくっている輝…自分の記憶にない小さい頃の姿を見るのはなんとも恥ずかしいものだ。輝はページをめくるスピードを早めた。こんなことをしている場合じゃないのに止められない。

 一冊目の最後の方に差しかかった時、輝のページをめくる手が止まった。そこには小学校の運動会の写真があった。綱引き、玉入れ、お弁当…どれも楽しく弾けた様子が切り取られている。だが、輝の脳裏にはそこにはないシーンが鮮明に浮かび上がってきていた。


「コウちゃん頑張れっ」

 輝の目の前を康太が余裕の表情で駆け抜けていった。運動会の花形種目、徒競走。先頭を走りながらどんどん後続を引き離していく康太の姿に輝はドキドキしていた。やっぱりコウちゃんはカッコいい! 最終コーナーを周り勝負は決しようとしていた。輝はどんな言葉で康太を讃えようか考えていた。気持ちの高ぶりが最高潮に達しようとしたその時、視界から一瞬康太の姿が消えた。次の瞬間、歓声は悲鳴に変わり、グラウンドに倒れる康太の姿がそこにあった。

「コウちゃん…!」

 立ち上がれない康太を次々に他の子たちが追い抜いていく。ようやく身体を起こした康太だが、足を怪我したのかまともに走ることはできなかった。気づけばグラウンドには康太一人。駆け寄った先生に支えられ、足を引きづりながらゴールを目指す康太に拍手が送られた。

 競技が終わると康太の姿はどこかに消えていた。輝は先生や康太の両親と一緒に彼の姿を探した。ふと思い立って校舎の裏に回ってみると、松の木の裏に隠れるように背中を向けている康太を見つけた。缶蹴りをした時に隠れる定番の場所だ。

「やっぱりここにいた」

 輝が康太に駆け寄ろうとすると、

「来るなっ」

 輝は少し驚いたが構わずそばに寄った。

「泣いてるの?」

「うるさいっ、泣いてなんかないっ」

「ウソばっかり」

 輝が康太の顔を覗き込もうとすると康太はそっぽを向いた。

「残念だったね」

 康太の肩が小さく震えている。本当は泣きたいのに輝の手前、必死に我慢しているのだ。

「足、ちょっと見せて」

 輝は康太の前にかがみ込んだ。怪我自体は大したことはなかったが、うっすらと膝小僧に血が滲んでいた。

「敗けちゃったけど、コウちゃんが一番カッコよかったよ」

 輝はそう言うと康太の膝に口をつけた。ためらいなど少しもなかった。

「なっ!」

 驚いた康太は輝を引き離そうとしたが輝も譲らなかった。

「消毒しないとダメだよ」

「だからってお前…汚いからやめろよ」

 輝は顔を上げて康太を見た。涙をためた目よりも康太の顔は赤くなっていた。

「コウちゃんだったら汚くてもいいよ」


 輝はアルバムから目を逸らし天井を見上げた。顔が火照ってくる。今思い出すだけでもかなり恥ずかしい。

「なんて大胆なおれ…」

 とても小4の子供がする行為ではない。無邪気というレベルでもないと思う。だが、あの時の輝に迷いは一切なかったのはまぎれもない事実なのだ。そして、あの瞬間に初めて気づいたように思える。

 ─おれはコウちゃんのことが好きだ。

 そんなことがあったが、その後も二人の関係に特に変わった様子はなかった。一緒にいる時間が増えたわけでもなく、妙に互いを意識する素振りも見せない。輝はそれでも物足りないとは思わなかった。恋、なんて言葉はまだ自分の中に持ち合わせていなかった。そう、二人は十分に幼かったのだ。

「おっと、片付け進めないとだな」

 輝はアルバムを閉じて再び荷造りを始めた。


 ドン、ガラガラ、ガッタン。

「いってぇ」

「ちょっと康太、大丈夫!?」

 ひとみがキッチンから駆けつけてきた。

「本棚整理しようとしたら足ぶつけちゃって。そしたらバランス崩して変なところつかんだらこのあり様で…」

 足元に散乱する本の山を見ながら康太はへへへと頭をかいた。

「へへへじゃないわよ。まったく…びっくりさせないでよね」

「ごめんごめん」

 これじゃかえって散らかったじゃないの、と文句を言いながら瞳は康太と一緒に本を拾い集めていた。朝からずっとソワソワ落ち着かない息子の様子に瞳は何となく気づいていた。

「そもそも輝くんには私の部屋を使ってもらうんだから康太の部屋はそのままでもでいいじゃない」

「そうなんだけどさ、きちんとしておきたいというか、アイツにバカにされたくないというか…」

「輝くん、ちゃんとしてそうだもんね」

 瞳はこの春から海外へ仕事の拠点を移すことになっていた。康太が小学生の時に大工をしていた父親が仕事中の事故で他界し、以来瞳は女手一つで康太を育ててきた。語学が堪能だった瞳は翻訳や通訳の仕事をしながら育児もこなし、その姿を見ていた康太は、父親のいない寂しさを感じながらも母の凄さに感心することの方が多かった。

 康太の中学卒業を期に、瞳はより仕事の幅を広げようと康太と共に都心のマンションへ引っ越してきた。高校生にでもなると親の手はほとんどかからなくなる。瞳のキャリアは本人の想像をはるかに越えるほど高くなり、いつしか海外で仕事をすることも増えた。日本にいるより海外にいる期間が長くなり始めた頃、輝が東京の大学に進学することが決まったという知らせを康太から聞いた。すぐに瞳はひらめいた。

「輝くんにここから通ってもらいましょう」

 戸惑う康太を後目に、瞳の行動は早かった。幸いなことに渡会わたらい家にとってもその話は渡りに船だったようで、とんとん拍子に話は進み、もはや康太がどうこう言える立場ではなくなっていた。

「輝くんが一緒なら私も安心だわ」

「オレだってもう子供じゃないんだから一人で全然大丈夫なのに」

 康太は表向きはそう言ってふてくされていたが、内心では少しワクワクしていた。

 引越しをして少し距離ができたら、さすがにこれまでのように会ったり話したりすることも減るだろうと思っていた。実際、そうなっていった。物理的な距離はそれなりに大きな変化を与えるのだ。

 だが、予想外の気持ちが生まれた。

 野球部の厳しい主将が実はすごく甘党だと知った時、マネージャーが推し活に小遣いのほとんどをつぎ込んでいると分かった時、ボールがバットに当たった時の音がいつもより心地よく響いた時…

 当たり前のように会っていた時には特に意識して話そうとは思わなかった日常の些細な出来事を〝輝に伝えたい〟と思うようになった。たまに電話で話すとそれまでためていたが一気に放出され、気づくと数時間が経っていたこともあった。輝は時に自分の話を交えながら、静かにでも楽しそうに康太の話に耳を傾けているように思えた。

「康太、手が止まってるわよ」

 瞳が睨んでいる。

「自分で散らかしたんだからちゃんと片付けなさい」

 そう言うと瞳はキッチンへ戻っていった。さっきからカレーのいい匂いがしてきている。

 今夜はカレーか。

「輝、母さんのカレー好きだったもんな」

 この際だから本も整理してしまおうと、あまり読まなくなったものは押入へしまうことにした。ついでに押入の整理もしてしまおうか…引越しの時にとりあえずしまっておいたままの段ボール箱を引っ張り出してみた。

「おっ」

 懐かしいものが出てきた。アルバムである。

「どれどれ」

 やはりそれは世の常。康太は腰を下ろしページをめくった。


 恥ずかしさよりも悔しさの方が勝っていた。大袈裟ではなく、康太はリレーにすべてをかけていた。あと少し…勝利は目前だったのに、まさか足がもつれて転んでしまうなんて…

「ちくしょう!」

 泣きたくないのに涙が流れてきた。こんなカッコ悪い姿、輝には絶対に見せられない…

「やっぱりここにいた」

 背後から輝の声。康太はビクッとしてしまう。近づいてほしくないのに輝はお構いなしに寄ってきた。必死に隠そうとしたが、結局泣いていることにも気づかれてしまった。

「残念だったね」

 そういうと輝は康太の前にひざまずいた。次の瞬間、輝の唇が擦りむいた傷口に触れた。

「なっ!」

 康太の全身を電気が駆け巡るような衝撃が走った。

「汚いからやめろよ」

 声が震えているのが自分でも分かった。輝にもきっと伝わってしまっている…顔が燃えているんじゃないかと思うほど熱かった。恐る恐る下を見ると輝と目が合った。

「コウちゃんだったら汚くてもいいよ」


 康太は力一杯アルバムを閉じた。あの時と同じように、いや、あの時以上かもしれない、今度こそ顔が燃え上っているのではないか。

 久々に見た小4の運動会の写真に、封じ込めていた感情が噴き出してきてしまう。忘れられるはずがない思い出。だが忘れなければならない思い出…だからせめて必死に閉じ込めてきたのに。

「あぁ~」

 康太は天を仰いだ。よりによって今日思い出すなんて。

「康太、ちょっときて~」

 キッチンから瞳が呼んできた。おそらくカレーの味見だろう。輝好みの味になっているのか康太にチェックしてもらうつもりなのだ。

 果たして冷静に味見できるだろうか…康太は少し心配だった。


 ようやく荷物がまとまったのは夜もだいぶ更けた頃だった。夕飯を摂ったり、懐かしいものが出てくる度に手が止まり、準備はなかなか進まなかった。明日は午前中には父親の運転する車で出発する。そろそろ風呂にでも入って眠りに付こうか…眠れるかどうか分からないけど。

 そう思っているとスマホがチリンと鳴った。康太からのLINEだった。

[遅くにごめん。準備できた?]

[うん、今さっきやっと終わった]

[そっか、お疲れ]

[電話じゃなくてLINEなんだ?]

[夜も遅いし、電話だとまた長話しそうだしな]

[長くなっても別にいいけど。どうせすぐには寝付けそうにないし]

[なんで?]

[やっぱり少し気持ちが昂ってるのかな]

[遠足前日の子供じゃあるまいしww]

[そういうコウちゃんだって眠れないからLINEしてきたんじゃないの?]

 すぐに返信が来ないってことは図星なんだろう。

[オレも部屋を片付けてみた]

 話が逸れた。

[別にコウちゃんの部屋が汚くてもおれは気にしないよ]

 ムッとしている康太の顔が浮かんでくる。

[懐かしいアルバムとか出てきてさ。ついつい見ちゃったよ]

 ドキッとした。

[実はおれも。だから全然進まなくて時間かかった]

 返信の間隔が開く。康太も何となく同じことを考えているような気がした。

 を切り出してみようか…

 迷っていると先に康太からメッセージが来た。

[明日気を付けて来いよな]

 ここで終わらせるつもりだ。ホッとする反面少しがっかりもした。

[うん、わかった]

[おやすみ]

[おやすみ]

 結局、その夜は夢とうつつの間を行ったり来たりしているような浅い眠りを繰り返し、輝は朝を迎えたのだった。

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