その手を離さないで
千織
あの日、一緒に津波に飲まれたツトムとトムは再会した
「あの……そろそろ離してくれませんか……」
「いえ、まだ離さないでください。せっかく再会できたのですから」
トムは固く握手をして離さない。
「握手は……苦手なんだ。もし、自分の考えが、相手に読まれていたらどうしようってね、心配になるんだよ」
俺は苦笑いした。
そう言うと、ようやくトムが手を離してくれた。
「あの日も、ツトムさんがこうして私の手を掴んでくれなければ、私は生きていませんでした。その時、たしかにツトムさんの手から、”諦めるな!”という思いが伝わってきた気がしましたね」
トムは笑って言った。
あの日と言うのは、大震災の大津波の時の話だ。
♢♢♢
あの日、ツトムは会社の会議に参加していた。
そして大地震が起こり、みんな騒然とした。
生まれて初めて机の下に隠れた。
電灯や天井が落ちるのではないかと本気で心配になった。
地震が一旦やんだ。
今でこそ、すぐに逃げるように習慣づいているが、当時は様子見どころか「今のは大きかったねぇ」「信号まで消えてるよ」「片付けは明日までかかるな」と、ぼんやり話していたのだ。
少し落ち着いたあたりに、家に年寄りがいる人たちが今すぐ帰りたいと言い始めた。
それもそうだ。
立ってもいられないくらいの揺れだったのだから、鍋なんかをひっくり返して、下手して火事になっているかもしれない。
とりあえず全員退社となり、皆、外に出た。
人の考えることなんて同じなのだろう。
一気に建物から人が出て来た。
目の前がまるで渋谷のスクランブル交差点のように、人人人、だ。
こんな街外れの場所に、こんなに人がいたなんて初めて知った。
津波警報が鳴った。
正しくは、もっと早く鳴っていたが、あまりのことでパニックになり、気づいていなかったのだ。
俺の家は会社に近かったから、すぐに帰って両親に避難するよう声をかけた。
両親は避難する準備をしていた。
まず大丈夫だろう。
俺は、近所の人たちに声をかけて回った。
「いや、前の結構おっきな地震なんかも、ここまでは津波は来ねがったがら大丈夫だべ」
なんて、呑気に返事をされる。
「避難するに越したことねぇべ! じさまは走れねぇんだがらさ、今から早ぐ逃げろ!」
と、俺は叫んだ。
俺は体が不自由な年寄りがいる家を優先に回って声をかけた。
幸い、どの家にも若い人がいて、避難しようとしていた。
だが、思いのほか年寄りがのんびりしている。
散らばったものを片付けている人もいた。
そこに、中学生たちが全校生徒一団となって高台に向かい避難で走ってきた。
皆、しっかり声を掛け合って、上級生から下級生まではぐれないようにしている。
その異様な光景を見て、年寄りたちがようやく事態の重大さに気づいた。
俺も避難したかったが、妻のサヨコが気になっていた。
サヨコは海岸に近い会社に勤めていた。
ここから遠くはないし、合流しようと海岸の方へ走った。
走っていると、子どもの泣き声がする。
ふと見ると小学生低学年くらいの金髪の外国人の男の子が泣いている。
近くに女の人がいるが、言葉がわからなくて困っているようだ。
「この子は?!」
「親とはぐれたみたいで……!」
俺は翻訳アプリを出して、津波が来るので避難するよう伝えた。
「避難所にいれば会える! 生きていれば会えるから!」
そうアプリで翻訳すると、彼はうなずいた。
「すみません! 私は、まだうちのおばあちゃんがいて……!」
「わかりました! 私がこの子を連れて行きます!」
俺はその子をおぶって高台に向かって走り始めた。
そう、今はバラバラでも、生きていれば会える!
サヨコも避難していると信じて走るしかないのだ。
だが、今回の津波は甘くなかった。
あっという間に波が差し迫って来た。
俺も、少年も、波に飲まれた。
渦に飲み込まれ、様々な破片や、車や、家に、体が打ちつけられる。
水を飲み、上下左右が無くなり、何度ももうダメだと思った。
だが、俺の右手に彼がいた。
彼も、ダメかもしれない。
もっと、いい方法があったかもしれない。
溺れながら冷静に後悔している自分がいた。
彼が死んだら、親はどれだけ悲しむだろう。
諦めちゃダメだ。
諦めちゃダメだ。
諦めちゃダメだ……
何とか、建物に引っかかり、海に引きずり込まれる前に助かった。
彼もギリギリ息を吹き返した。
だが、ホッとしたのも束の間。
次は寒さだ。
今度こそ死ぬかもしれない。
でも、不思議と死ぬのは怖くなかった。
生きてても、死んでても、もう仕方なかった。
「ここで……救助を待とう……。俺は、ツトム。君の名前は?」
ワッツ ユア ネーム?と聞いてみる。
「Tom……」
「はは。名前が、似ているね……」
俺はトムを抱きしめた。
♢♢♢
どれくらいの時間が経ったかわからないが、俺たちは助かった。
両親も助かった。
トムの両親も助かった。
サヨコは死んだ。
サヨコは経理の仕事をしていた。
火事場泥棒に遭ったときのために、今ある現金を把握しておこうとギリギリまで会社に残ろうとしたらしい。
生き残った会社の人から泣きながら土下座をされて謝られた。
サヨコはバカじゃない。
自分で考えて決めたことだから、いいのだ。
誰も悪くない。
仕方ないじゃないか、未曾有の大災害なのだから。
♢♢♢
トムは、医学部に進学した。
その報告とお礼にわざわざ来日したのだ。
サヨコの仏前に手を合わせてくれる。
あの日、
津波に飲まれながらも意識を保てたのは、彼のおかげだ。
救助が来るまでの恐怖に耐えられたのも、彼のおかげだ。
でも、
もし、
彼を見捨てて、
サヨコの元に駆けつけていたら、
サヨコは死ななかったかもしれない。
もし、
自分が死んだとしても、
夫婦で死ねたら、
それでも良かったかもしれない。
そんなことが、頭をよぎる。
トムに、そんな俺の13年間を悟られたくなくて、握手をしたくなかった。
「トム、命は、尊いかな」
「はい。私はそう思います」
「俺は……たくさんの人が道端で死んで、海に消えていって、体がバラバラになったのが体育館に並んだを見て、『命』って、思いの外、軽いんだなって思ったよ。日本ではね、”命を落とす”、”命拾い”する、って言い方をするんだよ。落としたり、拾ったりして、まるで財布みたいだね」
俺は一人で笑った。
「俺は……無我夢中で、自分の命を拾っただけなんだ。でも、時々そんなせっかくの命を手放したくなるよ。トムは……俺のようにならないでくれ。患者さんに、”自分の命を簡単にはなさないで”と言える医者になってくれ。トムが頑張ってくれたら……きっと俺も頑張れるから……」
俺は涙を拭った。
映画のヒーローのようにはなれなかった。
「ツトムさん、私は、必ずツトムさんとの約束を守ります。私の命は、ツトムさんが拾ってくれました。もう、”私の命”でもないのかもしれません。私の”使命のための命”なのでしょう。」
トムは、ほほえんだ。
いつか、この悲しみは癒えていくのだろう。
ただ、俺の残りの人生が、悲しみ続けるには長すぎるし、立ち直るには短すぎるのだ。
―完―
その手を離さないで 千織 @katokaikou
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