近代の渡世術 ⑤
常陸乃ひかる
必シモ戦フヘカラスト云フニ非ス
明治二十八年(1895年)。
日本は
しかし
「二億テール……ってなに?」
五月初頭。
疲弊しきった国の片隅で、それとなくつぶやいた無職の神族――ロス・ウースは悟っていた。この世に『神』という存在は必要ないと。事実、誰が戦場に赴いて戦果を上げただろうか? 指揮を執っただろうか? 日本が近代化するにつれて、高まってゆく神族不要論。炙り出される無能な神族。それどころか二種族の対立は顕在化し、誰の眼にも
人権のない神族への種族差別――殊に、町での入店拒否が頻発し、一方では人間を見下すままに、暴行事件へと発展する事例も報告された。
「――ロス様……
「おそらく
終戦してからもロスは、僻地の
そう云えば、種族間で
其ノ二
其ノ三
其ノ四
其ノ五
人ナクシテ世ノ発展ハ無シ 我等ノ
「ロス様、全体それは……?」
と、覗きこんでくる農民。
「簡単に訳すと、『神は人間に親切にして、ちゃんと働け。同族が変なことをしたら止めよう。神は人間と手を取り合い国を造り、もし人間が調子に乗ったら、力を見せつけてやろう』みたいなことが書いてあるかな」
どこのどいつが書いた戯言かは知らないが、背中がむず痒くなる文句と、現在の浮世とを見比べると、皮肉なほど――
「穏やかじゃねえですな。もう……戦争なんて、なんねえですよね?」
「
想像だけではひたすら実感がなく、代金の発生しない鰻の匂いで、ひたすら飯を食うくらい虚しかった。ロスが条文に眼を落していると、農民のざわつくのを感じた。顔を上げた先には、紺色のスーツを着た男が靴音を立てていた。高い背丈に、長い黒髪を撫で上げた容姿――
「その条文が、もはや神族の恥を証明する物になりそうだな」
「おや、ブラインドさん。何用ですか?」
ここのところ顔を合せていなかった、アウト・キヤストの主神だった。
「息災のようだな。農民に――いや、
と一言。彼は普段どおり、隙のない立居でロスが座る縁台に近寄ってきた。
「『良いニュースと、悪いニュース』ってやつですか?」
ロスは条文を袂に戻しながら、茶化すように言葉を返す。ブラインドは、「いかにも」と苦笑して横に越掛けた。ロスは、こうして間近で横顔を見るのは久しく、感慨深く目を細めた。
「では、悪いニュースから。
が、最初の一言はあまりにも重かった。ロスが許容できる情報量を優に超え、心から、また毛穴から――処理しきれない感情が溢れ出した。
「バ、バカなっ……
ロスの語尾が震えた。
農民がざわついた。
ブラインドが眼を
「
「いよいよ、人間が加害者に?」
「左様。目撃情報によると、人間は郵便局員で、町をうろついていた神族と口論になり、喧嘩に発展。身の危険を感じ、やむなく
今まで、神族と人間が均衡を保っていたという見解が上辺だけなら、容易に納得できるキッカケである。募る
「発砲した郵便局員はその場から逃走。未だに足取りが掴めていない」
「となると
「そうも云ってられん。我我とて、見つかればどうなるかはわからん。幸いにも、人間が神族を見分ける術はないが、もし黒と銀の混じった
「わたし、バレますやん!」
「畢竟、被り物でもしていれば問題なかろう」
「まあ、どうせ隠居状態だから良いけど……。で、良いニュースは? 内戦を上書きできるくらいの話なんですよね?」
「ああ、ふたりきりで話したい」
そうして両眼を見据えての誘い文句が放たれる。他意および下心がなかったとしても、ロスの胸は高鳴り、思わず顔を背けてしまった。返事も待たずにブラインドは「行くぞ」と自らのテンポを崩さず、先に腰を上げると背を向けた。
農民たちからやや離れた、人気のないケヤキの麓。
「
「それは、なんとなく予想してました」
ブラインドは苦笑し、「勘が良いな」と合の手を入れた。そうして笑みが消えると、本題のレールに乗ったのだと気づかされる。
「いつかの事態に備え、あの僻地を隠れ蓑にするために私は送りこまれた」
「いつかの事態が今ってことですか? じゃあ、これから可能な限り同族をあそこへ招き入れると? だいぶ狭いですけど」
「数があれば、森の開拓くらいは可能だとは思うが」
「あそこの連中、誰も働かないですけどね。そうなると、
「いや。大久保は純粋の心で、御前さんと友達になりたかったのだろう」
「だと良いんですが」
ふたりを包みこむ薫風、頭上で梢と葉がシャラシャラと季節を感じさせる。争いなど微塵も感じさせない風景で、ブラインドが一息ついた。釣られてロスも同じ言動を取ると、「そうだな。『我々』の話をしよう」と空気が切り替わるのを感じた。
「わたしたちって? 神族について?」
――ロスの素朴な疑問のあと、あからさまに会話が止まった。
「問題はそこさ。御前さんは、『自分が神族だ』と誰に教えられて生きてきた」
「誰って……生まれた時から? 親とか周りの同族とか……雰囲気?」
「では、その
問われるほど、ロスは返答に窮していった。一口に『神族』と云っても、なにを以てそれを表すのかが曖昧だった。事実として容姿、寿命、身体能力は人間と一線を画しているが――
「いや、誰も教えては……」
「答は極めて単純なんだ。この世に『神』なんて存在しない。我々の
「はっ? え、待って……じゃあ我々は『
ロスは戸惑いを見せながらも、彼の口から語られる全否定を、肯定的に受入れようとした。もはや根本的な認識が違うとしても、この
遠目に農民たちの姿が見える。
ロスが席を外してからも、平穏な井戸端会議をしている。
「――人間だよ」
ほどなくブラインドが眼を細め、口角を上げた。誇らしげに、悲しげに。
「その答えだけは聞きたくなかったです」
返答とは裏腹に、ロスは胸がすっとした気分だった。常から思っていたのは、人間が人間を操作する体の良い媒体――それが『神』であるだけだと。本来は無形の概念に、人間のナリを
「異質な力を持った者を呼称するのに、『神』という言葉はあまりにも都合が善かった。人間なら誰しも認知し、そして身近に感じられる存在だからな」
「清々しい気分です。わたしは端から否定してましたし。これからは、『なんちゃって神族』か『人間もどき』と名乗ります」
が、どういう理由であれ、内戦が勃発したことによって『神』と呼ばれた人ならざる者たちは淘汰される運命――否、人為的に消される流れになっている。
「その事実って、ほかの同族たちは知ってるんですか?」
「ほんの一部だけな。私もそれとなく長生きしてきたが、話さないようにはしていた。畢竟、私たちは人間に――浮世に操作されていただけだったのだ」
不意に、ほんのりと
「いやあぁぁ! なんか思い出すと恥ずかしい! 黒歴史ですやん!」
「『ですやん』って……。あとなんだ、黒歴史とは」
「あぁっ……も、もう良いですうぅ……。で、どうしてわたしに話したんです?」
「御前さん、容姿があからさまだからさ。要らぬ世話だったか?」
「できれば、知らずに人生を全うしたかったです。わたしだけに押しつけてるあたり、ほかの同族には『話さないで』ってことですか?」
ロスの悟りに対し、ブラインドは無言で頷いた。信頼されているのか、厄介事を共有させられているのか、いつでも彼は無茶な言動ばかりをロスに振りかざしてくる。
ここ数年、心の
「ヤケ酒します……」
「
――明治二十八年(1895年)、冬。
宣戦布告から半月以上が経過し、数名の同族がアウト・キヤストへ移住してきたが、百には至らなかった。この地域に、どれだけの『なんちゃって神族』が居るかは不明だが、ほとんどは捕まったり、あるいは殺されたりしている。
ブラインドから真実を聞かされて以来、ロスは胸がすっとしていた。自分が『神』ではないと知り、それこそが自信につながったのだ。内戦に巻きこまれている以上、その自信がなんの役に立つかと云う話だが。
本日は凍える気候で、ロスがまとう黒地の
同族たちが、
複数の吐息に押されるように、ブラインドがすぐに対応に移った。木製の隔たりを繰ると、たちまち農民が土間に倒れこんできた。相当森で迷ったのだろう、手足は傷だらけで、肩を上下に揺らし、寒さで唇も紫がかっていた。
「
「ぐ、軍がオラたちの村に
農民の大きな喚起に、ブラインド邸の同族たちは一様に顔を見合せた。発現しては消失する白い息が、ひたすら主張する。浮世では数多くの同族が捉えられているのだし、アウト・キヤストの大まかな位置が漏れてもおかしくはない。
「軍がわざわざ? もう
こないだまで
「しかし軍は、『ロスと云う主神を出せ』としか――」
「ちょ……! いやいや、わたし代表じゃないって」
農民が嘘を云っている風ではなかった。合点がいかない部分が多くある中、自分が神族であると信じてやまない者たちは、
「もう終りだ」「ここで骨を埋めるのね」「楽に死ねるか……?」「今すぐにでも逃げないと」「神なのに、戦う力なんてない」
精神的な圧迫に押しつぶされないよう、自我を保つのもやっとと云う様だった。それらを統括するブラインドは、その何倍も重荷を背負っているはずだ。彼を支えてやりたいが、かける言葉が浮んでこない。一緒に町を歩いた思い出も霞むほど、彼との距離が遠い気がした。
――ロスはまず、「治療するよ」と傷だらけの農民に近寄ったのだが、「
「そうは見えないけど。じゃあ農村は今どんな状況?」
「今は睨み合ってます。オラたちは
「な、なに言ってんの……! そんなの危険すぎる!」
軍がそこまで迫っているとなれば、農村の被害状況が気になる。こんな低俗な争いに無関係の人間まで巻きこんで、当事者たちが引きこもる状況とは果たして――
「ブラインドさん、今から農村に――」
「駄目だ。行ってどうする? 自ら首を捧げに行くのか?」
が、しばらく腕を
「違うっ! ここの同族にも、農民にも手出しはさせません!」
唇の奥で歯を食いしばり、ロスは我知らず顔を赤らめて反論した。云わば短絡的に導き出した底意地だったのだ。
「では御前さんひとりでなにをする? 元相談員が説得できる相手ではないぞ」
彼の
「わたしは、ここも農村も守りたい。こんな平和的な解決に応じないなら、人間は大馬鹿野郎ですよ!」
「
ブラインドは諭すように念を押してきたが、それが余計に心に引っかかった。
「はあ? む、無関係って……今こうして農民が危険を冒してるのに? 彼らが身を呈しているのに、無関係だって言うんですか!」
「落着け。熱くなるな――」
「みんなして、グダグダと
良いですか、『
辛抱ならず、かっと照る太陽のように半眼を大きく見開いたロスは、誰もが後進するであろう歩を、あえて前に出そうとした。慣れない罵声と大声に吐き気を催しながらも、怒りの垣間見えた顔付には誰もがぎょっとしていた。
どいつもこいつも、守りたいのは自分の身ばかり――しかし、どこまでも正しい意見であり、なにひとつ間違っていないのだ。自分の身を守れない奴が、他人なんて守れるわけがない。
ロスが
「――御前さん、
先ほどとは打って変って肯定的な発問で、場の雰囲気が――善し悪しを問わず、確実に変化していた。
「刀の時代は
「だが、そんな細腕で大の男を倒せるわけもなかろう?」
「人間ごとき素手で充分です」
「はあ……」とブラインド。彼は床の間の
躊躇しながらそれを
ロスは、心の底から湧き上がってくる――『離さないで』の呪文をぐっと堪えた。あゝ、実に愚だ。死地に赴く者が抱く感情ではない。
ロスは強めに手を引くと、ブラインド邸の隅に置かれていた
真心か、餞別か。ちらついた悲しさを相乗させる一言は、「死ぬなよ」だった。
「では……わたしが戻るまでに、農民の治療をお願いしますよ」
相も変らない憎まれ口は、ロスなりの餞別である。けんもほろろに、この場に残る同族に意見を求めたが、目を泳がせたまま誰も口を開かなかった。
「それからブラインドさん。例の秘密は誰にも話しませんので、ご安心を。だから貴方は、みんなの気持ちだけは決して……離さないで」
「……承知した」
彼の返答はまるで死人のように生気がなかった。その疲弊は、ロスにまで
それでも、ロスのブーツの爪先は前向きに――農村へ向いていた。
この下らない争いを、終戦へ向かわせるために。
近代の渡世術 ⑤ 常陸乃ひかる @consan123
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