後編

『明日は卒業式ね。お母さん着物着ちゃおうかなぁ』 


 朝、母はそう言って花央かおを送り出した。


『行ってらっしゃい花央。気をつけてね』


 気をつけて…て、それで、どうしてお母さんが事故にあうの!


 何もかもいつも通りだったはずなのに…。


 藤野 彩音あやねの人生は幸せだったのだろうか…。


 二十歳ハタチで花央を産み、たった一人で育てながら、遊びらしい事もせずに朝から夕方まで花屋での立ち仕事。


 それなのに彩音は、誰の目から見ても輝いて見えた。花央のクラスメイトが妬むほどに。


 学校の参観会の日は、花央はいつにもましていじめにあった。彩音も他の親から「ご主人はお仕事ですの?」などと、嫌味を言われているのを花央は聞いた事がある。

 だが、彩音は決まってにこやかに返すのだ。


『旦那さんに毎日家にいて欲しいなんて、仲の良いご夫婦ですわね。きっと愛されていますのでしょう』


『えっ、ええまあ、そうですわね。子供にとっても両親がそろっている事が当たり前で幸せな事ですからねぇ』


『そうですか? じゃあ花央は私に似て美人ですから幸せになれますね。どうもありがとうございます』


『は?』


 まるでこたえない彩音に、引きつった顔で取り繕う女の敗北は子供達に失笑された。


 そんな母を持つ花央が、優越感を持つのは言うまでもない。


 人間の死って案外あっけないものなのね…。


「頼れる親戚や、身内はいますか?」


 病院の手続きを手伝ってくれた事務員さんが、心配そうに花央の顔を覗きこむ。


「…いいえ」


 たった十六歳の娘に背負わされたのは、天涯孤独という言葉がピッタリだ。


 しかし、いくらなんでも十六の娘が一人では生きてはいけない。


「父親を探してみるかい?」


 そう言ってくれた風見に、花央は少し考えてから首を振った。

 かりに父親がわかっても、別の家族があるのならトラブルになるだけだろう。それなら花央が施設に入った方がましだ。

 幸せな家族を壊してまで、父に名乗り出てほしいとは思わない。


「…分かった。あとは僕に任せなさい」


 葬儀や何もかも分からなかった花央が、それなりの葬式で母を送る事ができたのは、風見のおかげだった。


 けっきょく中学校の卒業式には出席できなかった花央は、今月いっぱいでこの団地も出て行くことになっている。


 「任せなさい」と言ったからには、風見のはからいで、どこかの施設に入るのだろう。


 高校の手続きも全て風見がしてくれてたので、花央は持って行く荷物を整理するだけだった。

 片付けられた部屋は、がらん…としていて、母と暮らした記憶だけが花央を明日へと生かすだけ。


「施設は…自分の部屋なんてあるのかな。それに、入学式に一人で出席するのは私ぐらいよね」


 寒々とした静かな部屋。

 花央が小さくため息をついて、高校の鞄を持った時だった。


 ピンポーン♪


 玄関のチャイム音に首を傾げる。こんな朝早くから、誰かが来る予定はない。そっと玄関に近づき、チェーンは外さず細く扉を開けて…。


「え?」


 玄関を開けたとたん、さわ…と花の香りが花央の鼻腔をくすぐった。ジャスミンに似たその芳香。そこには、スーツを着込んだ風見が立っていた。


「おはよう。支度できたかい?」


「…なんで?」


「迎えに来たんだ。さあ、入学式に行こうか?」

 

 黒のスーツに、藤色のネクタイ。それに、この香りは…。


「あ…」


 その時、風見が夢に出てきた殿方と重なった。


 …似てる?


「手続きや、部屋の片付けやらで手間取っていてね。迎えに来るのが遅くなったけど、キミは今日から僕と暮らすことになったんだよ」


 風見はいつも通り穏やかな顔で花央を見る。しかし、花央の頭は真っ白で追いついていかない。


 風見の実家は病院経営をしているそうで、花央一人養うくらい、たいしたことではないのかもしれない。だが…いくらなんでも急な話だ。


「僕は一人暮らしだから、心配しなくて大丈夫だよ?」


 風見は、花央の不安をどのように受けとめたのだろう。

 男の家に住むのに、何が大丈夫なのかわからない。


「仕事で僕の帰りが遅いときもあるけど、防犯設備はしっかりしてる。駅からは歩いて五分だから、高校までは電車でいけるから安心しなさい」


「どうして…っ」


 そこまでしてくれるの…と言いかけて、花央の言葉が詰まる。驚いてはいるのに、花央の身体はとてつもなく熱い気持ちで満たされ、勝手に涙が溢れてくるのだ。


「…今度こそ、はなさないから」


 風見の低い声が、聞こえた気がする。しかし、頭と心が高揚していている花央には、それがどういう意味なのかがわからない。


 それでも、間違いなく風見と暮らせることを喜んでいる自分がいるのだ。


「…よろしくお願いします」


 他に何を言えば良いかなんてわからなかった。頭を下げた花央に、風見は嬉しそうに笑っただけ。


「さあ、行こうか?」


「…はい」


 風見が花央の手を握る。ふわり…と、風見から夢と同じ花の匂いがした。


『…今度こそ、はなさないで』


 そう感じたのは…花央の願望だったのか、それとも夢の中で、お姫様が言った言葉だったのか…。


 それからの花央の生活が、信じられないくらいかわったのは言うまでもない。

 風見から与えられる甘い時間は、花央を戸惑いさせるが、風見と一緒に過ごすことに幸せを感じている。


 そうして、花央自身が夢の出来事を思い出すのは、あれやこれやと風見に溺愛されて過ごした、もう少し先……。




            おわり

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夢と悲しみは美しきかな(KAC20245参加作品) 高峠美那 @98seimei

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