【KAC20245】はなさないで。
音雪香林
第1話 はなさないで。
馥郁とした春の香りが漂い始めた三月中旬、俺と息子の健太は家の近くにある公園へ来ていた。
健太は来月には小学生になる。
そのことに対して健太は自分でも思うところがあったのか「自転車に乗れるようになりたい」と言い出した。
俺は『健太の身体も心も成長し始めているんだな』と嬉しく感じる。
もちろん俺は賛成した。
ゆえに、新しく買った自転車と共に公園へやって来たってわけだ。
健太にヘルメットとプロテクターを着けてやり、自転車にまたがらせて足が地面に着くのを確認する。
「よしっ。健太、まずはそのまま地面を蹴ってまっすぐ進めるよう訓練だ」
俺がそう指示すると、健太は「え~!」と不満の声を上げる。
「ペダルは漕がないの?」
そうだよな。
漕ぎたいよな。
でも。
「まずはバランスをとれるようになってからだ」
健太は「ちぇ~」とぶすくれながらも、俺が「ケガしたくないだろ?」と告げると真剣に自転車にまたがったまま地面を蹴り始めた。
最初はよろよろしていたが、だんだんとしっかりした進み方になる。
お?
なかなか上達が早いんじゃないか?
流石俺の息子、と親馬鹿全開でニヤニヤしてしまった。
「もういいだろう。さあ、お待ちかねのペダルを漕いでの訓練だ」
「待ってました!」
健太が嬉しそうに万歳する。
「俺がうしろを支えているから、健太は前だけ見て進むんだぞ」
「わかった」
健太は少し緊張した顔で、でも力強くペダルを漕ぎ始めた。
やっぱり最初はふらふらして、すぐに地面に足を着いてしまう。
健太はそんな自分をビビりでカッコ悪いと恥じたのか、背中を丸めてしゅんとしていた。
「健太、最初は誰だって怖いんだ。気にするな。だから俺がついてるんだしな」
健太は深呼吸すると、改めて背筋を伸ばし再度ペダルを漕ぎ始めた。
そうだ。
肝心なのは諦めないことだからな。
しばらく漕いだあと、健太は。
「もうちょっと速く漕いだ方がいいかも。ビビッてゆっくり漕いでるからかえってフラフラするんだ」
そう自己分析して、俺に。
「速くなるけど、ちゃんとはなさないで支えててね」
と頼んでくる。
俺は「もちろんだ」と返したが、いざ漕ぎ出されてしばらくすると。
ん?
バランスも取れてるし、ペダルの漕ぎ方もしっかりしてる。
もう、支えはいらないだろう。
このあと健太の俺への信頼が薄れるかもしれないが、これも父の役目。
俺は手を放した。
健太はまっすぐに進んで行く。
その背中は小さくとも頼もしい。
まあ、公園の端まで行って折り返したとき、俺が立っているのを見て。
「えっ、お父さん? えっ、ぼく一人でここまで来たの?」
と驚きすぎて転びそうになったんだけどな。
健太は自転車から降りて俺をぽかぽかと叩くが、小さく「でも、乗れるようにはなったし……ありがと」と言ってくれた。
ああ、健太は少しずつ成長しているんだなぁと、俺は毎日どころか数秒ごとに思うのだった。
おわり
【KAC20245】はなさないで。 音雪香林 @yukinokaori
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