真実をひとひら

 彼が目を覚ます前に、私は暗い部屋を飛び出した。

 早朝の空気は春ぼけたように温く、それでも久々の外の空気は新鮮で、私は少し涙が出そうになった。

 河津桜が咲いていた頃に彼と出会ってから、私は彼の自宅にかれこれ2ヶ月ほど監禁されていた。河川敷で声を掛けられ、付き纏われて家を突き止められた私は困り果て、警察に相談しようとした矢先に包丁を持った彼に脅され、泣く泣くついて行くほかなかった。

 見知らぬ男は私への愛をひたすらに語っていた。その手にはいつも包丁やカッターナイフが握られていて、感情が昂ると彼はそれをおもちゃのように振り回して私を怯えさせた。

 抵抗すれば殺されると思ったから、震えながらも男の言うことに従った。衣食住を共にし、外出は許されず部屋の片隅に鎖で繋がれ、ただ飼い犬のように息を潜めていることしかできなかった。

 ある日「添い遂げよう」と言われた時、私は絶望した。心は完全に拒否しているのに、彼は私の手のひらとボールペンをガムテープでぐるぐる巻きにして婚姻届にサインさせようとした。あの瞬間、私の心は完全に死んだ。

 自死も考え、ペンをもう片方の腕に刺したりしてみたけれど死ねなかった。死ねないなら、逃げるか。でもきっと、彼は地の果てまで私を追ってくるだろう。その時には、私は本当に殺されてしまうかもしれない。

 そう思うと、沸々とした怒りが湧いてきた。この先の人生を異常者に乱される理不尽を、許してはおけなかった。

 だから私は彼を薬で眠らせ、彼の目を盗んで逃げることにした。簡単に私を追って来れぬようにして。


 は、なぜか持ってきてしまった。

 睡眠薬を飲ませ麻酔をして摘出したそれは、空いたジャムの瓶に詰められて窮屈そうだった。外科医の真似事ができたのは臨床実習と病院から持ち出した器具と薬のお陰かもしれないが、決して気分のいいものではない。血と涙で滑る眼球はあのまま部屋に置いてきても良かったけれど、ただ何となく持ち出してしまったのだ。

 作りものみたいなその両目は、ガラス瓶越しに晩春の空の下で閃いた。濁った水晶体に、最後の春が映る。それは私を監禁した彼に対する仕打ちへの、最後の慈悲なのかもしれなかった。

「気持ち悪い」

 ふたつぶの眼球が揺れる小瓶を燃えるゴミ箱に放り、私は改札へ向かった。

 駅前の桜は、もう散っていた。

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春風グラフィティ 月見 夕 @tsukimi0518

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