春風グラフィティ
月見 夕
僕の手のひら
それは夢のような景色だった。
春と呼ぶにはまだ少し早い2月の初旬、僕は川べりに咲く満開の桜を前に立ち尽くしていた。
雲一つない春寒の青空の下で咲く
写真を趣味にしている僕はそれなりに目が肥えているつもりだったけれど、その風景はあまりにも圧巻で、夢中でシャッターを切るほかなかった。
そんな僕の目の前に現れたのが、彼女だった。スプリングコートに身を包んだ長い黒髪の女性は、早々に訪れた季節を慈しむように見上げ、目を細めていた。
ファインダーに写り込んだだけの、全く面識のない女性の名前を知りたいと思ったのは初めてだった。
「あ、あの」
思わず声をかけてから、僕はしまったと青ざめた。見知らぬ30代半ばの男から声を掛けられれば、相手は慄くだろう。どう見積もっても彼女は20代そこそこにしか見えなかったから、なおさらだった。
だから僕の「桜、綺麗ですね」と無理に続けた言葉は消え入るように、菜の花の香りに吹かれていった。
けれど振り返った彼女はそんなことは意に介さないようにふっと笑い、
「ええ、とても」
とゆっくり頷いた。
その瞬間、清廉な川の流れも花見の見物客も揺れる河津桜も、全ての時が止まったように感じられた。
僕は多分、生まれて初めて一目惚れというものをした。
彼女は
外科医の卵だという医大生の彼女と、僕は急速に距離を縮めた。出会ったその日にカフェに誘い、お互いのことを話して意気投合したのだ。我ながら少し強引だったかな、とその時を思い返すと少し恥ずかしく思う。それでも僕は、彼女を手に入れたくて必死だった。
早苗は僕の好意を受け止め、応えてくれた。猛アタックの甲斐あってか、2週間後には僕の部屋に住まうほどになった。
せっかく通っていた医大も休みがちになり、さすがにそれはまずいだろうと咎めもした。が、彼女は困ったようにはにかんだ。
ふたりの時間を惜しむ早苗のそんな姿が愛おしくなり、そのたびに僕は彼女の手を取って言った。
「早苗、どうか僕から離れないで。この手を、放さないで」
僕はもう君が視界にいるだけで幸せだから、このまま僕と結婚しよう。来年もまた、一緒に河津桜を見に行こう。溢れんばかりのピンクの花吹雪の下で、君はきっと僕を振り返って、笑顔でその手を差し出して――
想像するだけで、愛しい人との暮らしは素晴らしいものだった。僕のカメラに早苗の笑顔だけが積み重なっていく未来が、もうすぐそこに広がっていた。
この先の人生をずっと、彼女と歩んで行けると、そう思っていたのに。
散り際の桜が名残惜しく香る春の日、早苗は僕の目を盗んで姿を消した。
追おうにも、僕に彼女を追うことはできなかった。空っぽの手のひらは空をかき、彼女がいない事実に耐え切れず足はもつれ、その辺の椅子の足に引っかかって転んでしまった。
君のいない部屋は、世界はこんなにも真っ暗だなんて。
途方に暮れた僕は、テーブルの隅に転がっているはずのスマホを見つける事すらできないまま震えることしかできなかった。
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