はなさないで

snowdrop

今は昔

「右足から左足に移るとき、かならずどちらかの手をつけたままにしてください。離さないように」

 スクールに通っていたとき、インストラクターから、よく耳にした言葉である。

 エネルギーワークであるのはもちろん、施術中に手を離すと、お休みになられているお客様が終わったと勘違いされたり、リラックスの妨げにもなったりしてしまう。

 なにより、離した手を再びお客様のおみ足に触れると、冷たさに不快感を与えかねない。

 治療を目的にしている接骨院とはちがい、癒しとリラクゼーションの提供を目的としているサロンでは、施術中に手を離したりしない。

 癒しを求めて来店されるお客様が、なにに対して高い金額を支払っているのかといえば、技術と接客とリラックスできる時間である。

 プロ意識をもってサロンに勤務しているスタッフは、そのことを理解して働いているからこそ、対応するお客様一人ひとりを大切にしている。

 サロンで働くことを夢見て通うスクール生に、インストラクターは丁寧に指導していた。

 そもそも、安くない受講料を支払って毎回、遠方より通いにきているスクール生は、会社にとってはお客様である。やさしく、わかりやすく、感じよく接して教えてくれる。

 卒業後は、習得した技術をどのように活用するか、相談にも乗ってくれていた。

 求人は少なく、選択肢はボランティア活動か独立開業、サロン勤務するための研修があることを教えられた。

 サロンの施術を受けて気に入ったから受講した人より、手に職をと考えて入ってきた人の方が多かった。

 卒業生の同期には、独立開業した人は多く、開業の手伝いによく出かけた。

 そんな人たちを見ながら、実際やろうとすると、足らないものが多すぎるのは明白だった。

 だからといって、目的があってはじめたこと。卒業後も、練習しに通ってはインストラクターに相談していた。

 独立開業するための、さらなる技術と接客などを学びに出かけもした。

 独立開業する人たちに声をかけられ、一緒に店を立ち上げ、楽しく働いた。

 ただ、疑問が沸く。

 はたして直営サロンの真似事をしたかったのか。

 はじめるきっかけは、あるサロンを間近で見たことだったと思い出す。

 たいした知識も情報すら持ち合わせていなかったけど、強烈に飛び込んできた光景は、なぜか脳裏に焼きついてしまった。

 できるできないは関係ない。

 行きたいかどうかの自問に、考える時間は必要なかった。

 初夏となってから、旅行カバンを引きながら電車に乗り込み、西へ向かった。

 そんな物語のはじまりの場所であったスクール。各地方に点在していたものの、すべてなくなり、いまでは東京本校のみとなってしまったとさ。

 

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はなさないで snowdrop @kasumin

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