春から
夏生 夕
第1話
引っ越しの準備をしていると、ふと捨てられたレシートが気になった。ゴミ箱から拾い上げたそれは某コスメショップで買い物した記録だ。
なんだこれ。
わたしではない。妹でもない。あの子はレシートを受け取らないから。そうなると一人しかいないことになる。
お父さん?
まず父親がこのショップを知っていることに少なからず驚く。聞いたことはあるとしても買い物だなんて。店に入ることすら躊躇しそうだ。なのに、なんだこれ。
どこで何を買おうが知ったことではないが、自分の中の父親のイメージとかけ離れ過ぎていて不審にさえ思える。
リビングのど真ん中で突っ立っていると玄関から鍵穴を回す音がした。やべ、帰ってきた。別にやべくねぇし焦る必要も無いが、レシートは再びぐしゃぐしゃに握り込んだ。あ、中指またささくれてる。
ゴミ箱へ投げ入れた瞬間リビングの扉が開かれた。
「ただいま。」
「…おかえり。」
うん、いつも通りだな。いつも通り、あのコスメショップで手に入るようなケア用品を使いそうもない。何故ならそのショップは若年層の女子がユーザーのほとんどを占めている。対して目の前のおじさんは、春風に弄ばれた髪もそのままでいられるくらい身なりにはさほど興味が無い。
そうなると買った理由は限られる。
「風呂、入っちゃえば?ご飯やっとくから。」
「お、うん、ありがとう。」
おそらくプレゼントだ。誰かに贈るために買い物したんだろう。自然な考え方だが、なんとなく無意識にその結論は避けて考えていた。一体誰に贈ると言うのだ。
キッチンに入り、手を洗う。今日はもう簡単に済ませようと惣菜は買ってきてある。あとは魚を焼くだけだ。
誰に何を贈ろうが知ったことではないが、考えてしまう。
おじさんの友達は、大概がおじさんのはずだ。実際「飲みに行ってくる。」と話に出すのは昔から付き合いのある近所のおじさん達だ。もしくは会社のおじさん。もちろん若い後輩もいるだろうが、ケア用品を渡すような事態ってなんだ。
醤油だれに漬けていた魚をフライパンに載せて火にかける。
女か。
そういえば最近、鞄を買い換えたようだった。持ち手も古くなりあまりにくたびれていたから当然といえば当然だが、普段の父なら構わず今でも使い続けていたように思う。誰か、耳を傾けたくなるようなアドバイスをした人がいるのかもしれない。
あまり想像できないが、全く無い話ではないだろう。想像できないのは、親しげに女性と話している父の姿を見たのが小学生の頃が最後だったからだ。あれから父は男手ひとつでこの家を守っている。晴れてもうすぐ、子供からは手が離れるが。
わたしは就職、妹は寮生活。
父は残って一人になる。
焼き目を確認して魚を裏返した。頃合いだ。
左手にピリッとした痛みが走った。中指のささくれが深くなっている。また知らぬ間に触ってしまっていたらしい。ぼうっとしていたり、反対に集中しているときの癖だ。幼い頃は母によく注意されたものだ。そうしてハンドクリームを塗ってくれた。すごく、すごく遠い記憶だ。
リビングの扉が開かれた。一体何年着続けているんだと思うパジャマ姿で現れた父を見て、脱力してしまった。これ、本当に誰かいるのかな?盛大な勘違いだって気しかしなくなってきた。
「未歩、部屋にいるから呼んできてよ。」
こくんと頷き父は再び廊下に戻った。
魚を皿に上げ、テーブルへ運ぶ。まぁもうなんでもいいや。一週間もなく、わたしはここから出ていくのだ。
眠そうに目を擦りながら未歩がやってきた。
「あんた、少しは手伝いなさいよね。」
「だって…今日なんか練習ハードだったんだもん。」
「あー…」
妹の未歩はかつてわたしも所属していた吹奏楽部に入っている。春がくれば大会だけでなく入学式など学校式典に駆り出される機会が増えるのだ。そして吹部の顧問はそのどれもを『宣伝の場』として活用するため他生徒達の前で演奏する日にこそ照準を合わせて練習が厳しくなる。毎年そうだった。
未歩は吹部の部長に内定している。わたしと違い、実力も期待も高い未歩はより練習に時間を割くため寮への引っ越しを決めた。わたしはサークルで楽器を続けたが、未歩はオーケストラの大きい大学を視野に入れていることだろう。
「ご飯もってって。」
「はぁい。」
のんびりした足取りでキッチンに入った未歩に3人分の茶碗を手渡す。これは引っ越しの荷物に詰めないで、ここに残しておくか。
遅れて父も戻ってきた。いつもの席に座ろうとする。
「お父さん、箸!」
「あ、はい。」
父は何かを椅子に置いて、改めて立ち上がった。
「春からもちゃんと出してよ。コンビニの箸とかばっかり使わないで。」
こくんと黙って頷いた。ほんとかよ。
冷蔵庫に入れていた惣菜を皿に移していく。たぶん、父が一人で食事するならこのパックのままつまむのだろう。最近はそれが前提みたいに綺麗な容器も多いが、たまには、ごくたまにでいいから自炊してほしい。もしくは誰かと外で食べてくれ。なんなら作ってもらってくれ、もう。
誰とどこで幸せになろうが知ったことではない。ないが、より良い生活を知らせてほしい。
さもなければこっちの気も落ち着かない。
全てをテーブルに揃え、再び手を洗った。ささくれが痛む。さっき深くしてしまったことを忘れていた。
ようやく椅子に座ると、目の前にリボンが結ばれた華やかな袋を掲げられた。
「なに?」
「あ、ありがとー。」
目を見開いているわたしの隣では同じ袋を差し出された未歩が当たり前のように受け取った。
よく見ると袋には「WHITE DAY」と書かれたシールが付いている。今日14日だったなそういえば。しかもその袋はあのレシートのショップだ。
「え、なんで?あげてないよね今年。」
こっちがバレンタインを渡していないから、ホワイトデーだということは忘れていた。その頃はチョコどころではなく、新生活に向けた準備やサークルの卒業公演で慌ただしくしていた。
「別に、もらってないから渡しちゃいけないなんて決まってないだろ。」
「そりゃそうだけど。」
もう一度、ぐ、と寄せられた袋を受け取った。開けるとハンドクリームが入っていた。
「あ、いいね。お姉ちゃんいつも、どうせすぐ楽器触るからってハンドケアなんもしてなかったもん。まじ痛そうだよ、それ。」
左手のささくれを指差して未歩が言った。
「向こう行ったら、使いなさい。」
ものすごく遠くに行くような口振りだが、引っ越す先は隣の県だ。
でも、そうか。未歩はともかく、父もこの指を見ていたのか。
「…ありがとう。」
自分より、娘の指を気にするこのおじさんは、
どこまでもわたしの父親だ。
「お腹空いた~、いただきます!」
未歩が魚に箸をつけたのを見て、わたしたちも箸をとる。
向かいで父が握った箸も、パジャマ同様かなり擦りきれている。
春からの生活も少しは丁寧になるように、新しい箸でも買って渡すか。
「そういえば鞄、買い換えたね。」
帰宅から放置したままだった父の鞄を未歩が箸で差す。やめなさい。
「えっ、あー、うん。だいぶ、くたびれてたからな…。」
慌てて口ごもった父の様子に顔を上げたわたしの目は、じとっと細くなってしまった。
春から 夏生 夕 @KNA
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