大切なこと
霜月かつろう
大切なこと
操縦桿に絡めた指から痛みが信号となって頭へと伝わり、しまったと。後悔が頭をよぎる。
『パイロットたるもの指の手入れはしっかりとしなくてはならない。それが自分の身を守るために必要なことのひとつだ』
先輩の言葉を思い出してまったくその通りだ。と納得する。これが戦場だったら今の一瞬、気を取られたことが命を失うことに繋がっていたに違いない。
今が待機時間で良かった。
低音のモーター音が鈍く空間に広がり続けるのはろくに身動きも取れないコックピックの中だ。この低音がないと落ち着かないくらいには訓練を積んだつもりだ。手足のように動かせるとまではいかないものの、不自由なく動くのは間違いない。
機体の外に付けられているカメラから辺りを見渡す。木々に囲まれた森の中。機体は木とおなじくらいの背丈だけれど、膝を折りたたんで待機姿勢をしているのでその半分くらいの位置に頭が来る。
敵機がいないのを目視とレーダーで確認すると作戦時間まで少し余裕があるのを確認。操縦桿から指をほどいて、小物を入れるポケットのチャックを開ける。動き回れば跳び出しかねないので封が閉じられるようになっている。その中には必要になりそうな小物が入っているのだけれど探すのは爪切りだ。
痛んだ部分を確認すると人差し指がささくれているのが分かった。きっと操縦桿にでも引っ掛けてしまったのだ。爪自体の手入れは欠かさなかったのに気がつけばこうやって傷んでしまう。それだけ激しく操縦桿を握っているのだ。
ささくれている部分を爪切りで丁寧に切り落とす。小物入れに爪切りを戻すと代わりに取り出したのはひとつの小瓶。爪を保護するための液体が入っていたものだ。青藍色のそれはもうわずかしか残っていない。
先輩が最後にくれた物。それも、もう尽きようとしている。先輩が戦場から帰ってこなかった日からずいぶんと月日が流れたのを実感する。戦友たちも次々とその数を減らし、もう知っている顔はずいぶんと少なくなってしまった。
今回の任務だってヤケクソみたいな任務だ。単騎で敵部隊に突撃し、注意を引いている間に本隊が背後から攻め入る。成功してもしなくても私は生きて帰ってこれないだろう。
『ほら。これあげるからさ。爪の手入れちゃんとしなよ。兵士になったからって女を捨てちゃいけないよ。私のおさがりで申し訳ないけどさ。一緒に平和になった世界で暮らそうよ』
先輩がそうプレゼントしてくれた小瓶。この小瓶は私にとってお守りみたいなものだ。先輩がいつだって隣にいてくれるような気にしてくれる。
残り少ない中身を大事にすくい取るように蓋に付属している刷毛を動かすと、ささくれていた爪へとゆっくりと塗っていく。
これまで私を守ってくれた大切なこと。これが最後になるかもしれないその行為を、これまでのことを思い出しながら。作戦時間いっぱいまでじっくりと時間を掛けて。繰り返し、繰り返し、十ある爪に塗っていった。
『作戦時間だ。よろしく頼むぞ』
時間になってそう通信が入った時、迷わずに操縦桿を前進に向けて倒すことが出来たのは間違いなく先輩がくれたプレゼントのおかげだ。
でもきっと先輩はそのことを喜んではくれないのだろうと思うとちょっとだけ残念だなと思う。
先輩。もうすぐそちらへ行きますね。そう思う不思議と手は震えなかったしささくれも痛まなかった。
大切なこと 霜月かつろう @shimotuki_katuro
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