本編
「あ、また持ってかれた!」
叫んで父さんが立ち上がった。
「クリップのバネが弱っているようだ。管理棟で取り替えて貰うよ」
そう言い残し、父さんは、階段を上がっていった。
……なんだ。僕と一緒にいたいんじゃないの?
悔しいような残念なような気持ちになったけど、陽向は何も言わない。一緒にいて気詰まりなのは、父さんだけじゃない。
去年、母さんが亡くなり、陽向は、ここ富士市にある祖父母の家で暮らすことになった。時折、東京から父さんが来ることになっているが、春休みもゴールデンウィークも、仕事が忙しいからと来なかった。夏休みに入ってようやく来たというのに、父さんは、この頃どうだ、と聞いたきりだ。返事なんて決まってる。フツー。
ザリガニ釣りをしているのは、親子連れが多かった。お父さんやお母さん、そして、妹とか弟。陽向のところと違って、みんなたくさん吊り上げてはしゃいでいる。
つまらなくなった陽向は、木道の先まで行ってみることにした。
この公園には木道があって、園内を歩く人は、必ずその上を歩かなければならない。木道が通っているのはアシの生い茂った湿地だ。そこは貴重な野草や昆虫でいっぱいで、絶滅寸前のものもあるんだそうだ。そうした貴重な植物や生き物を踏みつぶしたらいけない。
「この先ザリガニ禁止」の看板を通り過ぎ、ずんずん歩いていく。ふと気がつくと、辺りにはアシが生い茂り、濃い緑色の細長い葉をぴんと突き立てている。木道の板の継ぎ目からも、たくましく尖った葉先が覗いていた。
遠くに富士山が見えた。けれど周りはアシばかり。東京と違って、人の姿は全く見えない。
不意に、背中をどん! と押された。
「あっ!」
木道の縁まで飛ばされたところで危うく踏みとどまることができたのは、レッドデータブックに載っている生き物を死なせたくなかったから。陽向は、死んだ母さんを見ている。水辺の植物や昆虫を、あんな風に冷たい塊に変えてしまいたくない。
「うげっ!」
叫び声がした。全力で踏みとどまった陽向の代わりに、たたらをふんで木道から湿地に落ちたのは、知っている少年だった。
「
同級生の駆だ。陽向の教科書や上靴、体育着を隠すグループの、リーダーだ。東京で育った陽向の発音を口真似してからかったりもする。先生は苦笑するだけで、何も言わない。
湿地に落とそうとしたけど、陽向が踏みとどまったので、背中を押した駆の方が湿地に落ちてしまったわけだ。
「ダメだよ、駆君。木道から外れてはいけないんだ」
湿地でもがいている駆に言ってやった。いい気味だ。新学期になったら、上靴を隠されるだけじゃすまないだろうけど。
ばらばらと足音が聞こえた。数人の少年たちが走り去っていくのが見える。
自分から悪さを仕掛けてきたくせに、湿地に落ちた駆は青ざめていた。
「足がつかない!」
切羽詰まった声だった。
水草が生い茂っていて今までわからなかったけど、群生するアシの根元には、泥水がたまっていた。駆の足は、その泥水の中に膝まで浸かっていた。
「いつまで経っても、足が底につかない!」
そういえば、浮島の辺りは昔、沼がたくさんあったとホームページに書いてあった。父さんが自然公園に連れて行ってくれるって言ったから、パソコンでケンサクしてみたんだ。決して、楽しみしていたわけじゃないけど。
この辺りは、昔は、浮島原じゃなくて浮島沼だった。名前の通り沼がたくさんあって、中には底なし沼もあったという。
手足をばたつかせている駆を見て、ぎょっととした。
「駆君、もがいたら駄目だ。余計、沈んでる」
ぴたりと駆は動くのを止めた。
陸地化に成功した今でも、2メートル近い湿地が残っていると、これもウェブで見た。
2メートル。駆はクラスでは大きい方だけど、身長はせいぜい160センチくらいだ。このまま沈んだら、間違いなく、頭のてっぺんまで埋まってしまうだろう。
もがいたせいで、駆は腿の辺りまで泥に沈んでしまっている。
陽向は木道から身を乗り出し、手を差し伸べた。
「僕の手に捕まって」
「俺の方がお前より重いよ」
「僕、踏ん張るから」
「無理だ。泥の分も重くなってる」
「そうだね……」
よく考えたら、普段自分を虐めている駆を助けてやる義理などない。それに、逃げ出した昇平たちがきっと、大人を連れて戻って来るだろう。
太陽が厚い雲の間に隠れ、辺りがさあっと暗くなった。夏なのに、冷たく湿気った風が吹き渡ってきた。アシの葉先がいっせいになびいて、泥の匂いが強くなる。
「ボー、ボー」
不気味な声が聞こえた。ウシガエルの鳴き声のような、でも、明らかに人の声だ。
「ボー、ボー」
「なんだ、あれは」
駆が耳をそばだてた。
その彼の前のアシの株が、ぐっと盛り上がった。大きな波が、駆の体を上に押し上げる。
「うわあぁぁぁぁぁーーーーーっ!」
泥のてっぺんで駆が悲鳴を上げた
……「こんこはボーじゃなか」
声ならぬ声が聞こえた。敢えて言うなら、空気の振動だ。
盛り上がった泥のてっぺんにいた駆の体があっという間に急降下し、密集したアシの根元に叩きつけられた。
「駆君!」
金縛りのようになっていた陽向の喉から、ようやく声が出た。アシの茎の間に絡まり、うつぶせになった駆はぐったりと動かない。
「顔を上げるんだ、駆君!」
アシの株が丈夫なせいで駆の体は泥から出ているが、顔が泥に埋まっていたら息ができなくなる。
駆の様子を確かめようと木道の端まで行った時だ。
泥がぶくぶくと膨らんで、中から枯れ木のようなものがにゅっとつき出した。あっと思う間もなく、足首を掴まれた。
「!」
バランスを崩し、陽向は湿地に落下した。水泳のかっこ悪い飛び込みのように、腹からぺしゃっと泥の中に落ちる。
……「ボー、やっと見つけた」
……「もうよう離さんけぇ」
「ぶはっ!」
泥から顔を出した陽向は、口の中から盛大に泥を噴き出した。
短い時間だったから、口にも鼻にも、そこまで泥が詰まっていない。
陽向がすぐに顔を出すことができたのは、体を支えられていたからだ。いやにごつごつした手のようなものが、陽向の身体を上に持ちあげている。
「誰?」
すぐ目の前に、そいつの顔があった。
泥まみれだった。けれど、それでよかったのかもしれない。陽向を支えて直立した勢いで、泥が一筋、すうーっと流れた。こけた頬が現れる。そこには、肉が残っていなかった。泥の塊が落ち、さらに口元が露わになった。角ばった顎の上に、薄茶色の歯が何本か残っている。
骨。
頭蓋骨。
空洞になった目から、ドジョウがにょろりと這い出した。
「うぎゃあーーーーーーっ!」
悲鳴を上げた。声を上げなければ、頭がおかしくなりそうだ。
だって陽向は今、骸骨に支えられて底なし沼の中にいる。恐ろしい死霊が、何の表情もない真っ暗な目で、じっと陽向を見つめている。
……「ボー」
「ボー」ってなんだ?
必死で陽向は考えた。亡霊の鳴き声? あるいは何かの呪文だろうか。
……「本当にお前は、いつまで経っても友達ができないで」
なぜか、耳元に祖母の声が蘇った。放課後、誰とも遊ぶ約束ができない陽向に、祖母はたくさんの昔話を話して聞かせた。その中の一つを思い出したのだ。
昔、可愛い男の子を連れて浮島沼辺りに現れた「ばんばあ(お婆さん)」がいた。初めは優しかった村人も、次第に二人が重荷になっていった。二人は沼辺に追いやられ、ある大雨の日、ばんばあと男の子は水に流されてしまった。別々に流され、ばんばあは、「ボー、ボー」と叫びながら、死ぬまで男の子の身を案じていたという。
「ボー」は、坊やのことだ!
「僕は、ばんばあの坊じゃない!」
力いっぱい、陽向は叫んだ。
「僕は、市立○○小学校の三年生で、
……「ボーじゃない」
陽向を支えていた骨ばった腕が外れた。ずぶずぶと底なしの沼に沈んでいく。しかしすぐに、ずぼりと体が抜けた。盛り上がる泥の波に乗って、信じられないほど強い力で天に向かって突き上げられていく。
厚い雲が切れて、ぎらつく太陽が顔を覗かせた。
目が痛い。
次の瞬間、陽向は、木道の上に叩きつけられた。
駆はアシの根元に引っ掛かったまま、陽向は泥だらけになって木道にいるところを発見された。二人とも怪我らしい怪我もなく、意識がしっかりしている上に話が支離滅裂だったので、ふざけていて湿地に落ちたということになってしまった。
「底なし沼だって? 君達が遊んでいた場所は、深さが20センチもないんだよ?」
含み笑いをこらえながら、管理人さんは言った。
陽向と、そして駆の分も、父さんは平謝りだ。
管理人さんと父さんからたっぷり説教を食らった。
陽向は不満だった。だって自分は少しも悪くない。ばんばあとボーの話を大人たちにわからせようと必死になったけど、どうしても伝わらなかった。
反対に駆は、大きな体を縮こまらせていた。ちょっと愉快だ。
「ばんばあのことは、これからは二人の秘密にしようぜ」
車が泥だらけになるとぶつぶつ言いながら、父さんがバスタオルを探しに行くと、駆が言った。
「秘密? そもそも誰も信じてくれないと思うよ」
父さんや管理人さんのように。
「それでも、秘密にすんだよ!」
駆が言い張る。
「なんか特別みたいだろ。二人だけの秘密ってさ」
それから、照れ臭そうに笑った。
「お前、助けてくれようとしたよな。俺が木道から落ちた時」
「結局、何もしなかったけど」
「でも、助けようとした。昇平たちは逃げて行ったのに」
「あれは、おとなを呼びにいったんだろ?」
そうじゃないことはわかっていた。入ってはいけないと言われている湿地に駆が落ちたことで、自分たちも怒られると思ったのだろう、昇平たちはとっくに帰ってしまっていた。
陽向たちを見つけたのは、散策に来た地元の人だ。
「本当は俺、お前と友達になりたかったんだ。だってお前は、俺の知らないいろんなことを知ってるからな」
ぼそりと駆が言い、陽向は呆れた。
「なら、そう言えばいいのに」
「言えるかよ。だってお前はいつもスカしててよ」
よそから来たというだけで、そういう風にみられていることは、陽向もなんとなく感じていた。けれど、どうすることもできなかった。
「さっき、お前は逃げずにずっと俺のそばにいた。だから、特別だ。ばんばあのことは、二人だけの秘密にしよう」
よくわからない。でも、それもいいかもと、陽向は思った。
浮島沼のばんばあ せりもも @serimomo
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